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角田光代「くまちゃん」を読んだ。
共感度抜群の「ふられ」小説、と書いてある。
何の自慢にもならないのだけれど、僕の今までの恋愛遍歴は全部ふられて終わっている。
なぜかいつも、始まりを告げられるのも終わりを告げられるのも相手の方からだった。
そしてなぜ今こんな昔の本を読むことになったのか、それは皆さんのご想像にお任せします。

ふられることに関してエキスパートである僕には、共感できる描写がたくさんあった。
感情移入できる登場人物もいれば、はたまた嫌悪感を抱いてしまう人物もいた。
いい歳こいてウサギの大きく描かれた洋服を着ている僕は、くまの絵のついたトレーナーを着ているくまちゃんに恥ずかしながらも共感せざるをえないし、それはアーティストを心底好きになり生き方も変えてしまうぐらい影響されていたところも同じである。荷物もろとも彼女が姿を消していたということさえも。
バンドマンのマキトは、境遇も何も違う訳なのに、ああ僕はこの人に近いのかもなと思わせた。そして、同じような罪も犯してきたのかもしれないと思わせた。
希麻子には嫌悪感を抱いた。あああの子も同じような感じだったのだろうかとか過去の人を思い出し、何とも言えない気持ちになった。女ってみんなこんなにこわいものなのか。
久信の文太に対する思いには、自分の親友に抱いていた感覚を思い出した。それが恋愛と呼べるものなのかと考えると気持ちが悪くなってきたので、深く考えることはやめようと思ったが、確かに僕はその親友と出会ってその親友に憧れの気持ちを抱いていた。時折、自分の心が女性なんじゃないかと考えることはある。でも男性を好きではないし、女性がとてつもなく好きなので、そういうことではないだろうと安心する。ここ数年は女性の恐ろしさに触れまくっているので、恐怖からその中間のニューハーフが良いのではないか?と思うことはあるんだけど、ごめん脱線しました。

この本に出てくる人は、みんなそれぞれの形で恋愛をし、そしてふられている。
そしてまた恋をして、別の人とつながっていく。
それぞれの物語では、ふられる人が主人公であり、ふった人が次の物語の主人公になり、そしてまたふられる。
リレーのような形でバトンをつないでいく、ふられるというバトンなのかもしれないし、それは愛というものを色んな形に変えてつないでいったものなのかもしれない。
失恋の加害者は被害者になり、繰り返していく。因果応報、やったことはやられるし、この世は繰り返していくのだ。

よくふる方だってきついのだなんて言葉があるが、どうしても理解できないし、そりゃふられた方がきついに決まってんだろ!と思ってしまう。でも、多少なりともきつい思いはあるのだろう。それすらもないのだとしたら、それはもう知らん。
ふられた方は、次に行くためにその人を忘れてもいいと思う、でもふった方はその事実を忘れないのがせめてもの思いやりな気もする。そんなこと言ったって、恋愛の形なんて人それぞれだし、決まったルールなんてないからしょうがないんだけどもー。まず自分と他人は違うから、ルールを押し付けること自体OKADOCHIGAIなんだけどね。

今流行っているような恋愛映画や恋愛漫画にはちっとも共感しないし、感情移入ができない。自分が生きている世界とは別世界の異次元の出来事のように思えて何も感じないし、くそが!だまれ!と罵詈雑言を浴びせたくなるぐらいだ。
でもこの一昔前の失恋小説には心穏やかに読み進めることができた。胸キュンなんていらねえよ。ザワザワした心をそっと落ち着けるような本がちょうど良かったんだろう。



話は全然変わるんだけど、
「私は悪くない」
「俺が悪かった」
は良く聞くけど
「俺は悪くない」
「私が悪かった」
はあまり聞かない
気がするのは
僕だけだろうか。

その人の周りの環境にもよるから
一概には言えないし
ただのOMOISUGOSHIか。