沢山のblogの中から
出会ってくれてありがとうございます。
大分市内から車で約1時間。
竹田市という場所があります。
〇滝廉太郎の「荒城の月」
〇岡藩の城下町(岡城址)
〇キリシタンの町
と言ったキーワードが出てきます。
ザビエルが大分に訪れてから
キリシタン大名・大友宗麟の保護下
竹田は布教の拠点となったのです。
その竹田市には
この春から息子が住んでいて
用事に行ったついでに
街中散策をしてきました。
(お洒落なパン屋さんとカフェのアフォガード⬆️)
一番インパクトのあったのは
「竹田キリシタン資料館」
です。
スタッフの方の説明によると...
キリシタン弾圧の激しかった当時
竹田は岡藩主がキリシタンで、他藩に比べるとキリシタン弾圧が緩やかだったとのこと。
なので他藩を追われた宣教師たちを匿い、最終避難地と言われていたそうです。
他藩は「隠れキリシタン」
でも岡藩は
藩ぐるみでキリシタンを隠した
「隠しキリシタン」!!
隠しキリシタン??!!
歴史の教科書でも習わなかった言葉に驚きました。
展示物の中でも驚いたのは
*仏像の足元が開く仕掛けになっていて、そこに十字架が入っていたリ
*他の仏像とは様相の違う、十字架をモチーフにした石像があったり・・・
(写真は撮れないので、ご興味のある方はHPをどうぞ⬇️)
幕府の厳しい禁教の時代
何とか「外側」=体面を繕って
「内側」の信仰を守ろうとしていた姿
が伝わって来ました。
「外側ではなく内側」
当時の人たちの篤い信仰心が
じわ~っと伝わって来ました。
どんなに厳しく弾圧しても
○人々の信仰心には手を出せない
○人の心は外から無理矢理変えることは出来ない
と改めて思わされました。
一方で、やむを得ないとはいえ
仏像は偶像礼拝だ
という考え方もあるかもしれません。
でも、私は
神様は信仰の伴わないものを
責め咎めるお方ではない
そう信じています。
神様は
私たち人間に自ら進んで
心で信じてほしいのですね。
・強制されて信じる
・嫌々ながら愛する
・システムに乗っかって従う
これらは本当の愛ではないからです。
当時の政策に抗いながら
隠しキリシタンを藩ぐるみで行い
お互いの信仰を守り合っていた姿。
信仰は、カタチがなく
決して手で触れることは出来ず
実体のわからないもの。
だからこそ尊いんだなぁと
改めて思わされました。
期せずして前回と同じメッセージとなりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます。
あなたは愛されるために生まれた人です。