2013・SLオホーツク号運行歓迎イベント
鉄道遺産をめぐるセミナー下見2
 
常呂町日吉 鉄山跡。
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鉄山と湧網線開通の関係は深い。
第2次世界大戦後、付近の閉山する鉱山を買い取った国力鉱山は確実に繁栄し続けました。
しかし、一番の課題は、「鉱石輸送」でした。
 
昭和28年常呂町民待望の湧網線全線開通が実現する。
この実現には、鉄山関係者の影響もかなり大きかった。
 
このことによって、国力鉱山は最盛期を迎えました。
 
良質の鉱石は高価格で取引され、高賃金にひかれてどんどん人が集まってきました。
盛大なお祭り。寮。映画館。保育所。共同浴場。購買所。次々とできました。
鉱石堀の仕事はきつかった。
しかし、休日の楽しみも多かった、相撲大会。演劇観戦。
給料日は、常呂、網走まで飲みに出かける人も沢山いた。(湧網線に乗って!)
 
しかし、昭和35年貿易為替自由化計画、鉄マンガン自由化により、外国から入ってくる良質の安い鉱石との競争に負け、急激に衰退し、従業員はどんどんと減っていく。。
そして、昭和39年9月。閉山。
 
そして、現在残るものは、 
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バス停。
今の時期は岩肌を緑が覆い尽くしています。
 
そして、
石碑
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鉄山の開祖
 
芳川寛治翁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4台湾での炭鉱開発
国内外での鉱山炭鉱
開発に深くかかわった人物。
 
 
 
 
国力鉱山の資源開発に挺身し、開山の祖となり
国内資源開発の
一大火線となった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかし、具体的なかかわりを知る人はもういない。
 
 
 昭和14年5月、常呂群訓子府に住む人が
「常呂町太茶内の神社の奥に鉄鉱石がある。」という夢をみた。
そして、その夢の通りに良質の鉱石が大量にあった。
 
神のお告げによって生まれた「鉄山」は
華々しく花開き、多くの人の人生に影響を与え、
僅か20余年で消えた。
 
謎の石碑を残して。。
 
湧網線も、廃線になっている。。。
 
 
セミナー当日は、「最近のことは忘れたけど、鉄山のことはよく覚えているよ。」
と、笑顔が優しいTさんが
鉄山の思い出話を
お聞くださいます。
 
 
 
セミナー内容のご確認と申し込みは、
2013・SLオホーツク号歓迎実行委員会