今朝は粗大ゴミの日でした。


わたしの住む町では、粗大ゴミを公園に集めます。

お当番の人が朝から見守りに立ち、分別の手伝いをしてくれます。


ガラガラガラガラ…


通りに轟音響かせて

今日、夫は

使わなくなった重役椅子を捨てにゆきました。


サイズも考えず購入した重役椅子。

山ほど物を溜め込んでいる部屋には大きくて

部屋に椅子が住んでいるみたいになり不便だった。

座り心地が快適すぎて

悪い姿勢のままでも身体にフィットしてくれるから

長いこと座り続けて首肩腰が悪くなった。

しかも、おんなじ姿勢でもたれかかり続けた結果

軸が曲がって座面が傾いてしまった。

使えないのに、使わないのに

ずっと捨てられなかった重役椅子。


人にプライバシーを晒したくないから

なにを持っているか、なにを捨てるか

見られたくないからと

粗大ゴミの日は、彼の大の苦手だけど

やっとさよならしてくれました。


彼にとってはすごいストレスだったと思うけど

彼は自分の過去の行為にまたひとつ

区切りをつけてくれました。


椅子のキャスターが派手に音を立てるから

まぁ目立つ目立つ。

コソコソしてたくせに

結果は「鳴物入り」でのゴミ捨て。

ちょいと面白かった。(笑)


わたしもほかに大きなゴミを抱えて

一緒に付き添いました。

ええ歳のオジオバふたりで

えっちらおっちら、朝の公園までゴミ捨て。


見守りのみなさん

ただただ「ゴミ捨てに来た⚪︎⚪︎さん」で

穏やかにスルー。

そりゃそうだ。


廃棄しちゃならないものを捨てようとしていたら
止められるでしょうが
運ぶには、ちょいとうるさかったけど
処分したいのは、使わなくなった椅子。

人が集まりゃあるある、で
「今日なぁ、あの人デカいもの捨てとったわ」とか
どこかの誰かのネタになったとしても
2週間後の今頃は
夫が朝から轟音響かせていたことなんて
どうでもよくなっている。
記憶に埋もれている。

自分だって、見守りの当番で公園に立つことがある。
そのとき、
「あの人があんなもん捨てていて…」なんて
どうでもいいし、気にしない。
はやく穏便に済んでくれ。
とっとと済ませて、自分の用事をしたい。
そんなもんです。

人に馬鹿にされる、笑われる、低く見られる。
比べられてばかりだった彼はプライドの塊。
そこがスタックポイント。
(わたしも。)

けれど…
彼が今日、自分のなかの
「カッコ悪さ」とひきかえに、してくれたことは
家から不用品をなくして快適な状態を保つことに
大貢献する、素晴らしいこと。

「おうちを綺麗にしてくれて嬉しい」と
粗大ゴミの運搬をしてもらうたびに
そう言葉をかけて
ねぎらいの思いを伝えていたら
粗大ゴミの日の、彼の様子が変化し続けています。

「捨てる=人に見られる=笑われる、カッコ悪い」が
「捨てる=役に立つ=俺立派やん=人に見られる=気にならない」に変わってきています。

そして、

彼がゴミを捨てる気になったのは、たぶん

これはまでの経験のなかから

「逃げると追いかけてくる」を

学んでくれたからでもあると思うのです。


必要なことを避けて通っていると

逆に無理にでも

やらなきゃならない状況になる。


追いかける、でも、同じことが起きます。

無理をして追いかけると、

逆に遠ざかる、ということもある。


そのどちらも、彼は、学んでいるんだと思います。


夫は朝からの大仕事(笑)にも

イライラせず、キレず、

いつも通りに出勤してゆきました。

「おつかれさま」

「ありがとう」

のひとことを添えて見送りました。


山ほど溜めてたゴミだって

こまめに処分を繰り返せば

そのうち減ってゆくもんです。

ガンと大量に捨てるのは最初のうちだけ。

そのうち少しずつになってゆく。

循環してゆく。


思考もこうやって、すこしずつ

整理されてゆくのかもしれません。


形のあるもの、ないもの、どちらであろうと

捨てる、は、なにも恥ずかしいことじゃない。

カッコ悪くもない。

いらなくなったものを、そのままにしないという、その考えや姿勢が素晴らしい。

不用になったものの次の行き先を考え、行動できるということも、成熟した人間だからこそできること。


変わってゆく夫。

過去の繰り返しになっていない、いま。

わたしも学ぼう。

そして、わたしも夫にならい、学んで変わろう。


気持ちのよい朝です。



今日もにゃんこが可愛いです照れ