この本はリズム感良く読めるので、二度読み返したが、その内容の重さに我が心は暫く、「書けない、言葉が紡げない状態」が続いた。「光の人」の崇高な思いと実践が、私が感動的と表現するのもおこがましい程の生き方 が描かれていた。この本には単純な言葉で言い表せないものが埋め尽くされている。

作者の今井彰さんの見事なストーリー仕立て、主人公だけでなく周辺の人物も含め、その人間性や時代風景が目に浮かんでくる。まるで映像を見ているように話が進んでいくのは、彼が映像作家でもある故だろうか。音楽には時代に寄り添うように生きた人々の魂が、小説などの書き物には時代を知る、探る人々の知識と知恵が描かれている。

 

 

人間的な心を持つ異彩な人々が集まる日本でのある会合があり、今年の夏に知り合いになった日本ファッション協会の坪田秀治さんに10月、『光の人』を皆さんに紹介して欲しいと頼まれた。読んでからでないと書けませんと丁重に返信し、帰国したら買いますと約束し、直ぐに本屋まで走った。だが、2カ月経っても書けない状態が続いた。ならば、坪田さんのメッセージを記した方が、私の言葉より余程心の奥底に届くであろうと思い、この場で記させてもらう。本の写真と11月28日のマルセイユの夕空を添えて。

 

❖坪田秀治=私の友人である元NHKのプロジェクトXのエグゼクティブ・ディレクターの今井彰さんの労作 「光の人」是非読んでください。青少年センターの長谷場夏男さんを一部モデルにした、最近にない感動的な小説です。戦災孤児の救済からはじまって、親の虐待などで孤児を余儀なくされた人たちに捧げた人生。著者から発売前にもらい、一気に読んでしまいました。また、いかに自分が恵まれているか、これまで社会に対してどんな貢献ができたのか、をつくづく考えさせられた作品です。彼曰く「無名の英雄に光りを当てるのはなかなか難しく、宣伝も行き届かないのが悩み」とのこと。❖

内容(「BOOK」データベースより)=今井彰 『光の人』

太平洋戦争当時、東京大空襲などによって、多くの戦災孤児がうまれました。戦後の混乱のなか国の支援もなく、両親も家も失った孤児たちは、ある者はなすすべもなく命を失い、またある者は生きるために悪の道を受け入れざるをえませんでした。その孤児たちに手を差し伸べたのが、本作『光の人』の主人公、門馬幸太郎です。二十代の若き門馬は教師の職を投げ打ち、収入の見通しもないまま、孤児たちとの共同生活を始めます。この小説は着想から、六年の歳月をかけて書き上げた。この国の歴史には記されなかった切なく雄々しい愛の物語である。❖

 

 

実は坪田秀治さんとは1990年代にお会いしていたことを思い出した。日本商工会議所時代の坪田秀治さんにインタビューしていた。段々歳をとり、記憶を引き出す力が衰えている。そして坪田さんから感謝の言葉が送られてきたが、“ご縁”は続くようだ。

❖坪田秀治=ご縁とは本当に不思議なものですね。今井氏から知名度不足に苦戦しながらも、ぼちぼち伸びていますと報告がありました。また、12/14に東京カテドラル関口教会でチャリティーコンサートがありますが、それをプロデュースしている女性にも本を紹介したら、早速読んでくれて、「主人公の仙蔵が最初に行った修道会のドンボスコ。私のコンサートの後援の修道会です。10年前、キリスト教の修道会いくつも後援を頼みましたが、駄目で、ドンボスコだけが引き受けてくれました。ご縁感じます。この修道会にこの本紹介してみます。驚きました。」と。本当にありがとうございました。引き続きよろしくお願い申しあげます。ー坪田ー❖

 

小説などの書き物には時代を知る人々の知識と知恵が描かれ、知らない世代も少し手を差し出したら、手に入れることが出来る。音楽にも時代性があり、それを聴きながら時代に寄り添うように生きた心の残景が残っている。時代や世代が異なっていても、心の奥底にある人間の魂に響くものを探し続けていきたいと思う。

 

 

 そして、同じ会合のメンバーである松健太郎氏から“慟哭”と取れるもメッセージが届いた。 

■1回目は迂闊にも読み始める度に涙が出てきて仕方がなく、ひとり個室で読んでいてよかったと。2回目はキーワードを探しながら、著者独自の表現をじっくりと味わって読んでみました。3回目は自分の人生と照らし合わせてかなり時間を取り、自分の想いもノートに書き留めたりもしました。

1回目を読み終えて何か放心状態で、暫くはやっと読み終えたとの思いから、この本を見たくもないと。だが、また3回目に無性に読みたくなった、何となく喧嘩別れした彼女に会いたくなるような愛おしささえ感じたのです。

物語はマイナス100の状況にいるところからから始まり、最後はやっとプラスマイナスゼロの状態で、決してハッピーエンドではない。この印象は何かと似ている・・・「方丈記」の世界だ。全てがはかなく、すべてなすがままに物事が人の前を通りすぎて行くなんて、なんの抵抗もできずに。打ちのめされた登場人物たちの絶望の縁にそこにいる状態の時でさえ、それでも心の底から涌き出てくる希望に光を見いだしたくなる人、「光の人」のタイトルの意味が少しずつ自分の心にも写ってきた。

戦争の爆撃や火災に逃げ惑う人々のこと。やはり薩摩の血をひくものの端くれとして小生の想いは自然と、あの知覧の博物館裏に眠る千名もの若者たちのことへと想いが行くわけでございます。彼らが、自らが身を滅ぼしてまでも守ろうとした日本、又その地に住む日本人、この本のタイトルともシンクロして来る。今ある我々の暮らしの始まりは、そう言う彼等の魂の犠牲の賜物であると言うことも、そう言う大切なことも思い出させてくれた読者は各自いろんな想いで読み上げることが出来る作品であります。 松 健太郎拝 ■

 

 

嫌な時代がやってきている。今、学者などが研究してきた資料や文献、そして素朴な声や個人体験を無視して、悪戯に戦前戦後の歴史を書き換えようとする動きが増している。その意味では、あの「太平洋戦争の爪痕」を為政者側でなく、市井に生きる庶民の姿を知ることが、見ることが出来たらと思う。何故なら、何もかも失い、貧困に喘いでいた一般国民が逞しく、苦しみながらも凛々しく生きる姿が垣間見える。この「光の人」も、その歴史の証言として残されることを願っている。

一方、戦後社会の市井を描いた小説を読むのは久しぶりである。無頼派作家の「樋口清吉」は商社マン時代に、銀座界隈でギャンブルに明け暮れた経験から、銀座を通して戦後社会の裏側を描いた。樋口修吉は2001年に死去しているが、我が家の本棚には1983年の『ジェームス山の李蘭』から、2001年の遺作『縁かいな 始末屋清七』まで並んでいる。

本の写真と初冬ともいえるマルセイユの夕空を添えて。