先日、夕方TVをつけたら
たまたまB'zの松本孝弘が出ていた
「へ~、ミュージックフェアに出るんだ」と思いながら
32年ぶりとのことで「BROWIN'」の頃の映像が流れた
「BROWIN'」から32年も経つんだな・・・
時の流れは早いものだな・・・
などとあらためて思う
30年だぞ、30年
仕事に向かうためZを走らせていた車内で「BROWIN'」が流れていたのを今も覚えている
そんな松本孝弘が昔話をしていた中で
「俺たちの勲章」のテーマ曲のギターの音色とニュアンスが気に入りギターに目覚めるきっかけになった話していた
オレもまったく同じ感情を抱いた、なんだ松本孝弘と同じ感性じゃんw・・・と思った
行く末は同じじゃないけどねw
当時のこと覚えてるからね
OP動画を探した際にあらためて気づいたが1975年とのこと、ほぼ50年前だ
その時、テレビの前で親父に訊ねたことまで覚えている
「俺たちの勲章」のOPを観ていた時、音色となんとも大人の哀愁を感じ「このピユ~ンピユ~ンていう楽器はなに?」って訊ねたら「エレキギターやろ」という親父
「エレキギターってこんな音も出るとやな」と思った
「エレキギターってよかね~」みたいなことを言うと、アコギをやっていた親父は「な~んが(と、小バカにしたような)、エレキはダメ」と言ったのまで覚えている
そんなことも最初に買ったギターはエレキではなくアコギを買ったのも間接的に親父の影響下ということだろう
昭和40年代~50年代初頭くらいは青春ドラマ・刑事ドラマ・探偵ドラマなどは皆「横浜」を舞台にすることが多く
青春を楽しそうにやっていたり、いわば自営業で自分のリズムで楽しそうに生きていたりをドラマを通じて観るにつけ
「オレも大人になったら東京に出よう、楽しそうだし、オシャレだ」と思っていた(5年前に死んだ姉ちゃんは先に島を出て横浜に行ったのもあったのだろう)
親父のエゴで勉強させられたが、高校から下宿生活となって親父の目が届かなくなったら遊び惚けて
退学寸前まで(事実上は自主退学を校長は迫った)行くし、進学先(大学)も無いくらいバカに落ちていたし
でも、どっかに「都会に出たい」という気持ちは残っていた(昭和40~50年代初頭の刷り込みだろう)
最低偏差値29という「0点でも偏差値30はある、29なんて逆に難しいぞ」と進学校の教員からも小バカにされて、行き先も無いまま卒業したくせに445人の卒業生でも一番で車を買い(成績は440番でもそんなことは1番)、あっと言う間にチンチラ張り&フルキットのジャパンに仕上げる、そんなクソがつく身分不相応の浪人生がジャパンを転がしながら長崎新地バスターミナル周りでナンパしながら一浪中の浪人生が偏差値60まで上げ、横浜では無かったが埼玉の獨協大学に進学することになった、予備校の先生からも「合格が決まるのは学校としてもウレシイことだが、オマエが受かるのは、なんか間違ってる気がしてならない。コツコツとマジメに1年間頑張っても落ちる生徒もおるとぞ」と半分ホンネ、半分は友達同士のようにからかってね、だからオレも「ベースが違うし、要領が違うとです!要領悪くコツコツしたって身にならんば意味がない」と返すと先生も苦笑いのように笑って「まあ、そうやけどさ」こんなやりとりも覚えている
ある意味、中学まで親父の管理下で嫌でも机に向かわされながら勉強したことは大して身になってない・・・という自己経験からもそう感じていた
好き勝手に遊んで、やる時はやる・・・のスイッチを入れフルパワーてやる・・・というかね
でも今でも思う、ジャパン転がしながらよく1年で偏差値60まで上がったなって・・・
子供の頃から憧れた都会暮らし(埼玉はけっして「都会」とは呼び難いけどさ、ちょっと出れば都心があった)、向こうの土地に生活の拠点が移ると、車も替えたいし、ナンバーも替えたくなる
そんなこともあって車もフルローンで買い替えた
その際に横浜に居た姉ちゃんのダンナさんに「車庫証明だけ取らせてほしい」と相談したことがある
コレも遠い日の刷り込み、横浜を観ながら育った子供の頃の「憧れの都会くらし」の青写真からと思う
「なんで、わざわざ横浜ナンバーにしたいの?なんかイイかな、そんなに・・・横浜ナンバーって」とジモティーはそれほど意識はないようで、遠回しに断られた
今思えば解るんだけどさ、姉ちゃんトコも小さな借家で自分トコの車だって「やっとこさ」だったハズ
「姉ちゃんトコの駐車場じゃなくても近くに駐車場無いですか?一時的に姉ちゃんの家に住民票移して車庫証明取ったら数カ月でまた住民票移します」ってたしか話したけど「近くの駐車場もなかなか空きは無いよ」なんてたしか言われて断られたと記憶している
今思えば、大学生ふぜいがクソ贅沢だよね
そんな「都会くらし」や「大人になって粋に生きる」を憧れ始めた頃の音楽