今年2022年は鉄道開業150年だそうだ。

自分は10月14日に何か書こうと思っていたが、家庭の事情で書けず、今日まで伸びてしまった。


今日は真珠湾攻撃の日、太平洋戦争開戦の日である。

鉄道150周年については多くの人が書いているだろうから、自分は鉄道史であまり触れられていない戦争中について簡単に記そう。


明治に急いで鉄道網を築いたのは、産業の振興が最大の理由だが軍事輸送に必要だったからである。


横須賀線が大船から山沿いを走っていたり、中央本線が作られたりしたのは、敵が日本沿岸に近づいて艦砲射撃をされても、鉄道輸送が継続できるためである。


しかし、太平洋戦争になると航空機の発達により、内陸部の鉄道も攻撃対象となった。


終戦記念日が近づくと、都市空襲についてはよくあちこちのメディアで触れるけど、鉄道施設や列車そのものへの攻撃はほとんど触れられない。


東京大空襲をテーマにした『ガラスのうさぎ』には、大空襲で母親を亡くした主人公が東海道線で地方に向かうとき、二宮駅で米軍機の機銃掃射にあった話がある。ここで主人公は父親を亡くした。


今は手元になくなってしまった別冊宝島の「国鉄に生きていた」もかなりの部分が戦争中の話である。


日南線油津駅で働いていた女性駅員の話が出ていた。

働き手が軍役に取られ不足していたため、駅員は女性も多かった。戦争末期になると鉄道無電であちこちの被害の情報が伝えられ、駅舎に爆弾が直撃したため亡くなった女性駅員の話も出てくる。


攻撃されたのは青函連絡船もそうだ。

当時の青函連絡船には航空機の攻撃に備えて対空機銃があったらしい。空襲を受けてたった一門しかない機銃を空に向けていた人が、突然銃座から甲板に飛び降りて伏せた、その直後銃座が爆弾の直撃で吹き飛んだという話はあまりに生々しい。


列車の攻撃は、米軍が残したフィルムにもある。

高崎線の客車列車を攻撃したもので、弾は蒸気機関車から後ろの客車を舐め尽くすように当たっている。

高崎線は関東平野の中を真っ直ぐ進むため障害物がなく、列車全体が見える状態である。

蒸気機関車が空襲を知らせる警笛音が戦闘機の残したフィルムにも入っていた。


列車に対する米軍戦闘機の攻撃により、全国各地で多数の一般市民の死傷者が出ている。


自分にとって身近な場所では、

昭和56年に解体された常磐線土浦駅旧駅舎は、昭和20年6月10日の空襲で攻撃され、その時の機銃掃射のあとが残っていたという。


この空襲は主目的が土浦郊外の海軍航空隊基地(霞ヶ浦、土浦航空隊)だったが、常磐線も攻撃され土浦駅北側の川口町に4発の爆弾が投下された。この辺りは貨物入れ替えのためのポイントが多いので狙われたようだ。


土浦市街地は攻撃対象から外れたものの、この空襲では海軍航空隊を中心に100名以上の犠牲が出ている。


貨物輸送の現場では、やはり成人男子が軍役に取られるため、なんと15歳の少年が貨車の増解結作業に従事していた。夜も休む暇もなく働き、過労のため動いている貨車に轢かれたり、動いている列車から転落したりしてかなりの犠牲が出たらしい。

それでも鉄道輸送に従事しているという誇りを持って、耐えぬいたという。


少年時代に貨物輸送に携わっていた機関車運転士が書き残した言葉が印象に残る


「終戦の日、空を飛んでいたのは米軍機、地上を走っていたのは国鉄の列車だけだった」