今回紹介するのはつい最近手に入った珍しい劇場の筋書を紹介したいと思います。
明治45年4月 真砂座
演目:
一、仮名手本忠臣蔵
二、幡随長兵衛
明治時代の小芝居の劇場の1つ、真砂座の筋書です。
まず殆どの人が聞いた事がないであろう真砂座について紹介したいと思います。
真砂座は明治26年、日本橋中洲二番地に建てられた劇場で開場から暫くは小芝居の劇場として歌舞伎が上演されていましたが会場から3年が経過した明治29年頃からは七代目市川八百蔵や二代目尾上幸蔵、六代目市村家橘(十五代目市村羽左衛門)、三代目澤村訥升(七代目澤村宗十郎)といった大劇場の中堅や若手役者がしばしば勉強芝居を兼ねて座頭として公演を開く中流の劇場に昇格しました。
大正時代に撮影された真砂座
その後、演技座や東京座といった都心に程近い新しい劇場が開場すると勉強芝居などはそちらに移る事になり明治35年から明治44年にかけては長らく流行していた新派の劇場として使用される事で隆盛を極め、一時は
「東の真砂座(日本橋)、西の本郷座(本郷)」
と言われた程の明治時代における新派の一大拠点と呼ばれる程になりました。
しかし、明治中頃には歌舞伎座で公演を行い歌舞伎界の存在を脅かした程の全盛期であった新派も明治40年代に差し掛かると女形芸で家庭悲劇を描くパターン化した演目のマンネリ化や歌舞伎側が新派物を上演して見たり新派の要素を取り入れた新歌舞伎の大ヒットや市川左團次の始めた自由劇場、更には帝国劇場における女優公演の開始などにより新派が持ち合わせていた話題性や芸術性、先進性を完全に奪われてしまい徐々に衰退期に入っており、明治43年には本郷座が松竹により買収されると主だった新派俳優も松竹の専属となりました。
松竹に買収される事で何とか新派の拠点としての命脈を保った本郷座とは対照的に新派の衰退の余波をモロに食らう形となった真砂座は下記の地図を見ても分かる様に他の劇場に比べてあまり公共交通の便が良くない事もあり、新派の公演だけでは劇場の維持が次第に困難となってしまいました。
真砂座の位置
今回紹介する明治45年はそんな理由もあって久しぶりに歌舞伎の劇場としても使用し始められた年であり、1月からずっと歌舞伎を上演していました。
出演者は
・五代目中村東蔵(六代目大谷友右衛門)
・尾上紋三郎
・尾上伊三郎(五代目尾上松助)
・五代目岩井粂三郎(贈九代目岩井半四郎)
の市村座専属の4名に歌舞伎座の四代目片岡市蔵を加えて残りは小芝居常連の役者で構成されています。
中には後にチャンバラ映画の大スターとなる二代目尾上松之助も脇役で出演しています。
今回の明治末期頃の小芝居の世界では丁度役者の世代交代の狭間の時期に当たり
・二代目尾上幸蔵
・尾上菊四郎
・初代中村芝鶴(六代目中村傳九郎)
・十三代目中村勘五郎(四代目中村仲蔵)
・初代中村翫右衛門
といった実力のある幹部級の役者達の様に小芝居で実力や経験を活かして大芝居に昇格(?)して行った人もいれば
・七代目澤村訥子
・四代目澤村源之助
・四代目浅尾工左衛門
・五代目市川鬼丸(三代目尾上多賀之丞)
・市川小文次(五代目市川新之助)
・市川升三郎(六代目市川團之助)
・二代目市川團九郎
・二代目市川九團次
といった逆に大劇場から小芝居落ちした人や古くから小芝居一筋で活動する人や今回出演している市村座の4人以外にも
・四代目市川九蔵(八代目市川團蔵)
・二代目市川権三郎(二代目河原崎権十郎)
といった大劇場に端役で出演する傍ら勉強を兼ねて小芝居にも出演する役者などヴァラエティに富んでいました。
そういったいずれ大劇場で活躍するような有望株や近頃大劇場で見かけなくなった腕に覚えがある役者たちの様々な演技を見れるのも小芝居ならではの醍醐味でした。
主な配役一覧
仮名手本忠臣蔵
大星由良之助/高師直…五代目中村東蔵(六代目大谷友右衛門)
塩谷判官/与市兵衛/千崎弥五郎…尾上楽之助(四代目尾上菊右衛門)
桃井若狭之助/早野勘平…尾上紋三郎
不破数右衛門/寺岡平右衛門…四代目片岡市蔵
顔世御前/おかや…尾上玉之助
大石力弥…歌女之丞(中村歌女之丞?)
おかる…五代目岩井粂三郎
斧九大夫…片岡我蔵
石堂右馬之丞…尾上伊三郎
茶道珍賀/仲居お松…尾上松之助
幡随長兵衛
幡随長兵衛…市蔵
寺西同心…東蔵
極楽十三…紋三郎
八内…楽之助
遊女小紫…歌女之丞
お時/白井権八…粂三郎
廓の権兵衛…我蔵
長松…二代目中村おもちゃ(二代目中村福之丞)
一幕目の仮名手本忠臣蔵は大劇場ではまずお目にかかれない特殊Verで
・大序
・三段目
・四段目
・五段目
・六段目
・七段目
という九段目以外の全ての見所を一挙に上演するという知る人ぞ知る忠臣蔵七段返しならぬ忠臣蔵六段返し(?)となります。
仮名手本忠臣蔵
三段目と四段目 三段目の絵に映る坊主を演じているのが松之助です。
返しというのは舞台を暗転しないまま舞台が回転し次の場が始まるという演出で休みもない為あっという間に次の段に入る演出方法です。大歌舞伎ではあまり見かけませんが、小芝居ではよくある演出方法でした。
また上の配役一覧を見ても分かる様に多くの役者が二役、あるいは三役を兼ねている為すぐに入れ代わり立ち代わり出演する形となり、暗転や幕間もない為にかなり慌ただしい演目となっています。
ただ、役者側からすれば大劇場ではまず演じる事が出来ない大役を何役も一遍に務める事が出来る事から役の経験を積む良い勉強になるのは間違いなく、見る方も小芝居なので多少の演技の粗があっても大劇場では見れない演目や型、組み合わせといった珍しいもの見たさに来る人もいる事から演る側、見る側の双方にとって一定の需要と供給が成り立っていたと言えます。
因みにこういった小芝居の劇評というのはまず残っていないのですが、今回の公演に関しては忠臣蔵のみ劇評があるので長いですが紹介したいと思います。
「東蔵の大星由良之助、馬鹿に固くなってリャンコ(武士の侮蔑語)のミイラが出来上がった様。」
「楽之助が定九郎と与市兵衛を二役早替わりの器用を発揮するのは良い」
「紋三郎の勘平、悪かろうはずはないと思ってたのが転倒して大失望」
「粂三郎のおかる、紋三郎の勘平、諸事寺島(五代目菊五郎風)で、一生懸命しているだけで可もなく不可もなく」
「市蔵と楽之助の二人侍が並ぶと(中略)市蔵が役者に見える」
「茶屋場の東蔵の由良之助、益々固く、でも顔は立派だ。粂三郎のおかるは勤め身(何役も兼ねてる事)の頗る疲れたらしく益々貧弱。」
「先ず面白くなかった忠臣蔵だった」
かなり辛辣な劇評ですね…。
全ての小芝居がこうだとは言いませんが、演技においては少なからずこういった落差があるのはご愛嬌だったそうです。
二幕目の幡随長兵衛はこれまた謎に満ちていて一応は第二幕の花川戸幡随内の場になっているものの、本来登場する水野の家臣黒沢庄九郎は登場せず代わりに寺西同心という人物が登場します。
幡随長兵衛
詳細が不明なので何故寺西同心が出るのか、どういった舞台だったのか解説のしようがありませんが、小芝居の醍醐味の一つとしてこういった大劇場では見られない特殊な型や演出があり、中には明治時代において廃れてしまった江戸歌舞伎の型などもあり一概に「臭い緞帳芝居」と片付けられない一面があります。
因みに真砂座はその後どうなったかというと小芝居の歌舞伎や新派を相互に上演しつつ命脈を保っていましたが、出演する役者はどちらもグレードが落ち完全に小芝居の劇場となりました。しかし、大正時代に入ると浅草六区が娯楽の中心として栄え、大正5~6年にかけて1000人以上の大人数が収容できる観音劇場や公園劇場、吾妻座、御国座といった新しい劇場が出来てしまうと前述の通り辛うじて公共交通である都電和泉橋線が水天宮駅まであったものの駅から劇場まで離れている事もあって客足が次第に遠のいてしまい大正6年11月公演を以て廃座となり今は跡地にマンションが建っています。資本力がある大劇場とは異なり、人気や時代の趨勢によって一時は羽振りがよくてもあっという間に廃座になってしまう小芝居の劇場の悲哀ぶりが伺えます。
自分は大正時代の浅草の小芝居の筋書も持ってますのでまた後程紹介したいと思います。