まいど。さそりでおま。
正月明けから忙しくしていたのだけど、父親の四十九日が終わり、(と言いたいのだが、魂入れ忘れる寺に)やれやれ。
実家の仏壇を廃棄し、弟夫婦宅にちっさい仏壇を新たに設置。
で、実家の仏壇で、父母ともに「魂抜き」をした状態で、今度弟宅の仏壇に「魂入れ」をこの四十九日にするはずだった。
魂、抜いたり入れたりって宗教作法にうんざり。
目に見えない父母の魂が仏壇におるとかおらんとか、誰が決めてん。
旧の仏壇から魂抜いて、このひと月半、じゃあ、父母の魂はふわふわどこにおるんですか。
魂は修行中の身らしい。
生きることが修行とちゃうんか。
死んでからは楽させてやってくれ。
天国、神のみもとに直行便で行かせてやってくれい。
魂抜いたり、入れたり、余分に料金も発生。
意味わからん。
そもそも、白木の名前書いたものから黒塗りの位牌に移行するとか、その位牌は四十九日まで仏壇の中に入れたらあかんとか、
誰が決めてん。
炊き立てのご飯と御茶を供えろとか、ろうそくと線香立てるとか、おりんをチーンと鳴らすとか、誰が決めてん。
そう。
どこかの誰か人間だ。
生まれて死んでいく過程。
死んでからの過程。
この本人おらん死んでからの過程(墓とか仏壇とか)は誰が決めたか知らんが、細々とややこしいし、金かかりすぎやねん。
どこぞの宗教関係者が決めて飯のタネにしてると思ったら、なんか違和感しかない。
そもそも信心深いのなら別やけど、何十年と宗教とは無関係に生きていて突然信者ぶらなアカン(しかも言われるがまま意味もわからず)。
個人個人、「信心」というのはどんな形であれ持っているのではないかと思う。
確かにわたいは無宗教で、墓も仏壇も作るな派。
リビングに写真とビールでも供えて、時々写真見て思い出してくれたらそれで十分うれしい(死んだ身やけど)。
死んだら、何か、エナジー的な(魂とも呼ぶかも)ものになり、宇宙までも自由に漂えるとイメージしている。
必要ならば、家族のそばまで来るかも。
とにかく、守る人がいなければ、墓も仏壇もタダのオブジェと家具である。
海外では、仏壇を家具として使用する人もいる。
細工が細かく美しいからね。
魂抜きなんかしているわけない。(笑)
全く意味のない、寺と信心深い遺族のエゴで成り立つ死後の法要ということで、わたいの感想を終わるわ。