ソ連時代の政治犯収容所は、拷問が当たり前に行われていたそうです。電球をつけっぱなしにして眠らせないのはまだ軽い方で、身動きできない狭い空間に閉じ込めて水を一杯に入れて長時間水責めにしたり、まっすぐに立てないほど小さな空間に長時間閉じ込めたり、壁が一面に真っ暗に塗られた部屋に長時間立ちっぱなしにさせたり、怖ろしい身体的、精神的拷問が長期間行われました。真っ暗な部屋に長時間立たされていると人間は精神的に追い詰められて、壁に自分の頭を打ち付けたりするのだそうです。

 

 そして1953年、ソ連のスターリンが突然死にました。すると、ソ連の指導者の一人が「これからは拷問はやめる」と宣言し、収容所でのそれまでのような拷問はなくなりました。しかし、その後も秘密警察が共産主義に反対する市民を拘束すること辞めることはもちろんなく、盗聴、スパイ行為が頻繁に行われました。

 この施設が東ドイツ政府に引き継がれたのは1951年からですが、1989年に解放されるまで、たくさんの市民が収容され長期間自由を奪われました。その内の多くが栄養失調、感染症、拷問の結果亡くなったり、心身に障害を持って生きねばならなくなりました。

 市民生活の中で、友達だと思ってうかつに政権の批判をしたり、「こんな生活には疲れた」などと愚痴を言ったりすると、ある日突然、たとえばパン屋さんのトラックみたいにカモフラージュしたボックスカーが職場に来て「あなたは私たちと一緒に来なければならない」と告げられ、「ああ、秘密警察だ」とそこにいた全員が認識するのだそうです。

 

 1970年代に新しい収容施設が建てられると、外は見えないように曇りガラスとはいえ窓があり、ベッドもトイレも部屋に設置されました。

 

 地下の拷問室などを見た後だと、なんだか人間的な生活空間に見えてしまいますが、とんでもないところです。中には二人部屋もありました。孤独から、友達になれると思ってはいけません。同室になるのはスパイです。事情聴取をされた後二人部屋に入れられて親切にされて、うっかりと事情聴取された内容と異なること(真実)を言ってしまったら大変なことになってしまいます。

 

 ここでは基本的に「囚人」は「人民の敵」なので、人間ではありません。名前ではなく番号で呼ばれ、看守は囚人と人間同士のように会話してはいけないことになっていました。

 新しい施設には当時最新のテレビや電話室がありました。すべて、市民の会話や通信などを盗聴し情報収集するための部屋です。また、施設の壁には細いケーブルが伝わっていて、囚人が何かすれば看守がそのケーブルを強く引き、切断させるのです。するとすぐに通信室に情報が伝わり、どこで問題が起きたかがわかる仕組みになっていました。

 

 

 廊下の壁や床材は当時のままで、床材はリノリウムなのですが、ガイドさんいわく「リノリウムも接着剤も当時の東ドイツで生産されたものなので、独特のにおいが今もしてきます」と言ったのですが、私はそれ以外にも建物自体から漂ってくる臭いが気になって、接着剤の臭いはわかりませんでした。

 

 

 1989年に東西ドイツが統一され、この施設は閉鎖されましたが、施設で働いていた看守の多くがまだその周囲に住んでいるのだそうで、「囚人」だった方の中にはかつての敷地に建っているスーパーマーケットにいまだに行けない、と言う人もいるそうです。万が一当時の監視人に出会ってしまったらパニックが起こってしまうから、というのです。どれほどの恐怖だったか、想像するだけでも背筋が寒くなります。

 

 施設には、修学旅行生らしい中学生、高校生が団体で見学に来ていました。自分の国でこんなことが起こっていたなんて、どんな気持ちだろうかと考えました。息苦しくなる空間ですが、同じ民族どうしで相手を人間として扱わない、こんな施設を政府が持っていたという事実を後世に伝え、二度とこのような時代が来ないようにする戒めとすることは大事です。今でも世界には「思想・表現の自由」が保証されていない国がたくさんあります。どうかそのような社会が無くなって、人々が自由に暮らせるようにと願わずにはいられません。