久しぶりにブログを書きます。


日本から8月22日にジュネーブに戻っていたのですが、妹が遊びに来ていたので何かと忙しく、ブログを書く余裕がありませんでした。


つくづく、私がブログを書くのは暇だからなんだなあ、と思った次第。妹がいて一緒にご飯を食べに行ったり家で食事を作ったり後片付けをしていたりすると、ブログを書く余裕などありません。


今日からしばらく、妹と訪れた観光地などを紹介します。


まずは、身近なフェルネー・ボルテールの「ボルテール屋敷」から。ボルテールについて詳しい人はあまりいないと思います。私も名前だけはどこかで聞いたなあ、というくらいでした。ボルテールが住んでいた館が残されているのですが、内部はガイドツアーに参加しなければ見ることはできません。問題は、そのガイドツアーがフランス語であることです。週末に1度だけ英語のツアーがあるらしいのですが、町の観光案内所で聞いても、これまでは「さー、行ってみたらわかるんじゃないですか?」と気のない返事でした。


今回、妹が来たのでふらりと観光案内所に立ち寄ったところ、なんと珍しいことに、その日の午後に英語のツアーが行われる、と情報が書いてあったのでした。「これはぜひ行かなければ」と思った私は、妹をつれて館へ向かいました。




ボルテールはフランスの作家、哲学者で、本名はフランソワ=マリー・アルエ(1694年~1778年)と言いました。ボルテールは、ペンネームみたいなものだそうです。


スイスとの国境に近いこんな南の果てに住んでいたのは、彼が若いころフランスの政治を批判する本を書いたために投獄され、釈放された後も国王から「パリに近づいてはならない」、とされたからだそうです。


1760年にフェルネーに館を構えたころ、フェルネーは湿地帯で作物は育たず、人は100人から200人程度しか住んでいなかったのだそうです。また、流行病がひんぱんに発生し、多くの人が貧しく不健康な状態に陥っていた、との案内からガイドツアーは始まりました。


ボルテールは町の環境を改善し、安全な水を住民が飲めるように水飲み場を整備しました。今でも、ボルテールが寄付して作られた泉、というのが町の中にあります。ボルテールは農地を開発し、農作物がつくれるようにしたり、工場(何の工場かは聞きそびれました)を作るなどして産業を起こし、ボルテールがこの町に滞在した20年ほどの間に、町の人口は1000人程度にまで増えた、とのことでした。


町の人々がボルテールを慕ったのは当然でした。

ボルテールは当時大変有名な作家であったので、常に来客があり、数名から時には十数名がフェルネーの館に滞在していたのだそうです。この館は非常に独創的な建築方法をとっていて、当時普通の屋敷では部屋から部屋に行くにはどこかの部屋を通過して通らねばならなかったのですが、ボルテールはこの屋敷の中に使用人が通る廊下を作ったのだそうです。そうすることで、客たちの邪魔をしないように、としたのだろう、とのことでした。


フェルネーの館は、ボルテールがなくなった後姪が受け継いだのですが、姪は田舎の暮らしを嫌ってさっさと人に売ってしまい、その後も所有者がたびたび変わり、そのたびに館の内部に手を加えていったので、ボルテールが住んでいたころとはかなり違った内装になっているそうです。


ボルテールは、晩年にフランス国王から許されてパリに戻ることができました。長生きはするものです。83歳で亡くなったのですが、その数年前にパリに戻り、パリの人々から大歓迎を受け、死の数日前にはパリのコメディー・フランセーズで彼のお芝居が上映されるのを見届けて亡くなったそうです。


興味深かったのは、壁に掛けられていた一枚の絵の背後の物語を聞いたことです。生前ボルテールはフランス南部にある町、トゥールーズのある一家のために裁判闘争をしたのです。その絵は、その一家とボルテールが話し合っている場面を表しています。


その一家の父親が長男を殺した、という疑いで父親は逮捕されたのですが、実はその話には裏があり、長男が法律家になりたくて勉強していたが、当時法律家になるにはカトリック教徒でなければならなかったので、彼はカトリックに改宗してまで勉強を続けていました。彼の家族はプロテスタントでした。ところが彼は、自殺してしまったのです。当時カトリックでは自殺者は教会でお葬式をすることや教会の墓地に埋葬されることは許さず、遺体は町の外に放り出されて獣の餌になっていたのだそうです(もちろん、今はそんなことはしませんので誤解のないよう)。


それで、父親が息子の自殺を隠して自分が殺したことにした、というのです。どういう経緯かはわかりませんでしたがボルテールはこの一家のために裁判闘争をして、結局この一家が勝ったのだそうです。


ボルテールの一生は権力と戦った一生だったようで、彼の思想はフランス革命のきっかけの一つとなった、とのことでした。


今までフェルネー・ボルテールの町に住んでいながらボルテールのことを何も知りませんでしたが彼の著作も読んでみたいなあ、と思いました。


彼の著作は多くの人をひきつけ、王侯貴族にも熱烈なファンがいたそうです。ロシアのエカテリーナ2世もその一人で、エカテリーナ2世は彼の死後、彼の館をロシアに移築しようとしたのですが、結局果たせなかったそうです。また、彼の死後すべての財産を受け継いだ姪が、彼の所蔵していた図書をすべて売り払ってしまい、散逸したのですが、エカテリーナ2世がほとんどを回収し、今はロシアの国立図書館に所蔵されている、ということです。


余談ですが、彼は生涯に何人も恋人がいたそうですが、女性物理学者として有名な、エミリー・デュ・シャトレ夫人と恋仲になった時期があったそうです。彼女は当時のことで当然学校に行って勉強したわけではないのですが、男の兄弟がいて、兄弟と一緒に科学を学んだのだそうです。いかにもフランス的、と申しますか、この女性は夫がいたのですが、同時に若い恋人もいて、さらにボルテールとも恋仲だったわけですが、40代前半で妊娠をして残念なことにお産で亡くなり、せっかく生まれた赤ちゃんもすぐに死んでしまったそうです。


エミリー・デュ・シャトレ夫人について知りたい方はウィキペディアを見てください。驚くべき人物だったことがわかります。


館の建物の周りは広い庭になっていて、小さな池には睡蓮の花が咲いていました。




フェルネー・ボルテールの町の観光案内所のHPは以下の通りです。


http://www.paysdevoltaire.com/en


では、また。ウサギ