独言居士7、空想科学小説三部作 私のSF遍歴(後編)

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歳をとって独り言が多くなってきました

独言居士というテーマで

何か書いてみます

老人の繰り言です

読み流してください

 

第7回は

「空想科学小説三部作 私のSF遍歴(後編)」

です。

 

空想科学小説三部作

1、私のSF遍歴(前編)

※2、私のSF遍歴(後編)

3、星新一愛について

 

私が色々読み、出会ってきたSF作家たちを書いてみました。

 

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※※※日本のSF作家※※※

高校生になるとさらにSF好きが加速して、早川SF文庫が座右の書(笑)となってました。

 

ハヤカワSF文庫は、株式会社早川書房が発行している文庫のレーベルです。1970年以来、SFや推理小説を中心に収録してきており、日本国外の翻訳作品を多く出版しています。

早川SF文庫の刊行第一冊目

エドモンド・ハミルトン『さすらいのスターウルフ』

 

日本の作家たちもSF小説を書く人気作家が現れ、

戦前の横田順彌や海野十三、戦後はSF同人誌『宇宙塵』の創刊(1957年)、早川書房の発行する『S-Fマガジン』が創刊(1959年)されたり、みなさんご存知の作家たちが活躍します。

SFマガジン創刊号

 

創刊号には、

糸川英夫『 宇宙ロケット随筆』、荒川秀俊 ―『21世紀の夢― 起床の人工制御』、 日下実男 ―『地球の生成から消滅まで― 地球物語』、岡俊雄 『SF映画展望1 空想科学映画まかり通る』

R・ブラッドベリ( 大久保康雄訳)『 七年に一度の夏』、A・C・クラーク (宇野利泰訳) 『太陽系最後の日』、 I・アシモフ( 鎮目恭夫訳)『 五十億の塵』、 I・アシモフ (田中融二訳)『やがて明ける夜』などが掲載されています。

 

福島正実

福島正実(ふくしま まさみ、1929年〜1976年)、編集者、SF作家、SF評論家、翻訳家です。

本名:加藤 正実(かとう まさみ)

 

アイザック・アシモフ、サー・アーサー・チャールズ・クラーク 、ロバート・アンスン・ハインライン など海外SFの翻訳を多数行っています。初代『S-Fマガジン』編集長。SFを日本に定着させるため、様々な分野で精力的に活動し、「SFの鬼」と呼ばれました。

 

覆面座談会事件

(Wikipedia引用)

覆面座談会事件(ふくめんざだんかいじけん)は、1968年年末、『SFマガジン』誌上の匿名座談会によって日本SF作家クラブの内部に亀裂が生じた事件。

1950年に日本の推理小説界を震撼させた、『新青年』における抜打座談会事件のSF版と呼ばれることもある。

1968年12月25日発売の『SFマガジン』69年2月号に「覆面座談会 日本のSF '68~'69」が掲載された。その内容は、評論家石川喬司・翻訳家稲葉明雄及び伊藤典夫、そして『マガジン』編集長・福島正実と副編集長・森優(南山宏の本名)の5人の出席者がA~Eの匿名に隠れて、当時の日本のSF作家たちを遠慮なく批評するものだった。

 

私のおすすめ本

『未踏の時代』

 

 

今日泊亜蘭

今日泊亜蘭(きょうどまり あらん、1910年〜2008年)、日本の小説家、SF作家で、アナキストを標榜していた作家です。

本名:水島 行衛(みずしま ゆきえ)

父親は画家、小説家、漫画家の水島爾保布。母親は読売新聞の記者で、女性記者のはしりといわれる水島幸子。

天才肌?の人で、府立五中時代には既に英語・ドイツ語・フランス語の三語の他、独学でラテン語・ロシア語・ギリシャ語まで学んでおり、「ヘレス語」という架空言語の創作までしていたと言われ、30カ国以上の言葉を操る言語学者としても活躍しています。

東京府東京市下谷区下谷上根岸町(現・東京都台東区根岸)生まれ。上智大学付属の外国語学校に入るもこれも中退。経済的に不自由がなかったため、就職などせずにいたようです。

1953年、佐藤春夫の推薦で「文芸日本」に「桜田門」(水島多樓名義)を発表しデビューします。

1957年には、日本最初のSF同人誌「宇宙塵」に客員として設立より参加しています。

1962年、戦後初のSF長編小説『光の塔』が東都書房から刊行されました。

 

眉村卓

眉村卓(まゆむら たく、1934年〜2019年)、日本のSF作家です。

本名は村上 卓児(むらかみ たくじ)

代表作「司政官シリーズ」で1979年に泉鏡花文学賞を、同年と1996年に星雲賞日本長編部門を受賞しています。

大阪府大阪市西成区で生まれ、1957年に大阪大学経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦株式会社に入社。1960年 からSF同人誌『宇宙塵』に参加しています。

1961年3月21日発売の『ヒッチコック・マガジン』5月号にショートショート5作品が掲載されたことで、商業誌デビューとなります。1963年 に初めての単行本である長編『燃える傾斜』を刊行。

1968年 に、「さんいちぶっくす」(三一書房)からショートショート集『ながいながい午睡』を刊行して以降、生涯に渡ってショートショートを3000篇も書いた人です。これは星新一の書いたショートショートをはるかに凌ぐ数ですね。

 

私の愛読書

『準B級市民』

 

小松左京

小松左京(こまつ さきょう、1931年〜2011年)、日本の小説家です。

本名:小松 実(こまつ みのる)

1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(現ハヤカワ・SFコンテスト)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。

『SFマガジン』(1962年10月号)『易仙逃里記』でデビューしました。SF小説の大家と称されています。

代表作と言われるものは『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など多数あり、戦後の日本を代表する小説家とも言われています。

小松左京は、デビューの直後から、通常の作家の枠を超えて活躍しています。

1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られます。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動、また宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務め、映画制作にも手を染めています。

 

日本沈没

(Wikipedia引用)

日本沈没

最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという。

最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した。『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された。

 

私の愛読書

『果しなき流れの果に』

 

 

筒井康隆

筒井康隆(つつい やすたか、1934年〜)は、日本の小説家、劇作家、俳優でホリプロに所属しています。

SF御三家の一人。

※御三家それぞれの作家名は「異説あり」です。(笑)

大阪市の生まれで、天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持っていたと言われます。

1965年に東京に転居してから、本格的な作家活動を始め、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行しています。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)が直木賞候補となっています。

 

筒井康隆の私が大好きなエピソード

(ウィキペディア引用)

断筆宣言

初期に書かれた近未来の管理社会を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『科学朝日』1965年6月号所収。のち角川文庫2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった際、作中のてんかんの記述(脳波測定器を内蔵した巡査ロボットが運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、日本てんかん協会から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、月刊誌『噂の眞相』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。

私がこのエピソードが好きだという理由は、筒井康隆を擁護した作家たちが、同和関係者の批判を受けて「沈黙」してしまったというところですね。

表現の自由を語る連中の「ご都合主義」をよく物語っていますね。(笑)

 

私の愛読書

『日本SF傑作選  筒井康隆』

 

 

半村良

半村 良(はんむら りょう、1933年〜2002年)、日本の小説家。

本名清野 平太郎(きよの へいたろう)

東京府東京市葛飾区生まれで、1952年東京都立両国高等学校卒業後は、連込み宿の番頭やキャバレーのバーテン、広告代理店など30近い職業を転々としていたといいます。

1962年、短編小説『収穫』が第2回ハヤカワ・SFコンテストに入選し、作家デビューしました。

1971年に刊行した『石の血脈』で「伝奇ロマン」や「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを創り出しています。

1971年に発表された『戦国自衛隊』は架空戦記の源流であると言われ、1979年に映画化されています。

 

私の愛読書

『産霊山秘録』

 

光瀬龍

光瀬龍(みつせ りゅう、(1928年〜1999年)、日本のSF作家。本名は飯塚喜美雄。東京府北豊島郡南千住大字千住南に生まれ。元の姓は千葉で、結婚する際に妻の姓に改めています。

大学卒業後、同人誌『宇宙塵』誌上に「光瀬龍」の筆名で作品を発表しはじめます。

光瀬龍は、

 

「空想科学小説というものは、書くのがはじめてだった。それまでに、何回も文芸同人誌を作ったりこわしたりしていたし、劇団を作って戯曲を書いたりしていたから、書くという作業は苦にならなかった。」

 

と語っています。

光瀬龍と言うペンネームはが当時愛読していた作家井上靖が1954年に発表した短編小説『チャンピオン』の登場人物であるボクサーの名前にちなんでいます。

光瀬龍の作品は幅広く多岐にわたっており、『宇宙年代記』と言われる一群の宇宙SFや、架空戦記などの歴史もの、ジュブナイル(ティーンエイジャー を指す言葉)SF、このほか青春小説、時代小説、歴史エッセイ、科学エッセイ、漫画作品など多数です。

 

私の愛読書

『百億の昼と千億の夜』

 

 

平井和正

平井和正(ひらい かずまさ、1938年〜2015年)、日本の小説家、SF作家、漫画原作者、脚本家。神奈川県横須賀市生まれ。

手塚治虫の影響を受けて、中学生の頃大学ノートに『消えたX』と言う長編SF小説を書いています。これが同級生たちに好評で、小説家を志すようになります。

中央大学法学部に入学し、1959年ハードボイルド小説『夜の干潮』が中央大学ペンクラブ会誌『白門文学』に掲載されます。

1961年、『殺人地帯』が『SFマガジン』の第1回空想科学小説コンテストで奨励賞を受賞します。

1962年、『レオノーラ』が『SFマガジン』に転載され、商業誌にデビューすることになります。『8マン』や『幻魔大戦』など大ヒット漫画になった原作も多く書いています。

 

私の愛読書

『幻魔大戦』

 

 

豊田有恒

豊田有恒(とよた ありつね、1938年〜2023年)、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家、と大変多彩な人です。

1957年、現役で東京大学理科二類に合格するも、東大に悪印象を抱き慶應義塾大学医学部に進学します。しかし高校時代の猛勉強の反動で麻雀やハワイアンバンド等に熱中して一度も進級できぬまま留年を繰り返したため、放校処分を受け、武蔵大学へ進学することになります。

1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテストの佳作に入賞。

1962年、「火星で最後の……」で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、これが『S-Fマガジン』1963年4月号に掲載され、SF作家としてデビューとなります。

 

W3(ワンダースリー)事件

(Wikipedia引用)

W3事件

虫プロダクションは1965年(昭和40年)、アニメ用の作品『W3』を企画していたが、それとそっくり同じものが他のプロダクションで企画されていることがわかり、虫プロ内部に産業スパイがいるのではないかという疑惑が起こった。そして、虫プロ社員の中でもその疑惑が話題になり、何人かが虫プロを辞めることになった。手塚はアニメの企画と並行して同作の漫画版を『週刊少年マガジン』で連載することになるが、連載6回目で中断した後『週刊少年サンデー』に掲載誌を変更した。この突然の掲載誌変更が「W3事件」と呼ばれる。

連載誌を変えた理由について手塚は、「虫プロダクションの事情」と「W3のスポンサーはロッテで、宇宙少年ソランのスポンサーは森永という広告業界の関係」と述べている。また、手塚はこの件に関しては誰も責めておらず、講談社から刊行された「手塚治虫漫画全集」版のあとがきにおいては、講談社に迷惑をかけたことについて謝罪している。

 

ワンダー3の『ナンバー7』のキャラクターの一つ宇宙リスと同種のキャラクターが、TBSの『宇宙少年ソラン』に登場したことから、豊田有恒が手塚と虫プロ上層部からスパイの嫌疑を受け、虫プロを退職することになった事件ですね。

 

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SFマガジンについてちょっと書きます

 

 

SFマガジンは外国のSF小説が載っていて、貴重でした。

今のSFマガジンは結構厚手の雑誌ですが、当時はもっと薄くて、今の2分の1以下ぐらいだったと思います。

初代編集長は前述の福島正実。

第11代(2021年〜)編集長は溝口力丸氏。

 

溝口力丸氏

 

創刊当初は日本人のSF作家が世に出る前で、福島正実自身が書いたり推理小説家に依頼したりしたと言います。

SF小説に推理小説的な要素があるのは、この辺からが始まりでしょうかね?

 

現在のSFマガジンはハードなSF小説のほか、ファンタジーSFや怪奇・奇想SFといった感じのものから、漫画に至るまで色々掲載されています。

じじいの現役老人としては、少々ついていけないこともありますね(汗;)。

 

SFの早川と言われますが、1925年に矢部良策が大阪に設立した老舗の東京創元社も、翻訳SF小説、翻訳推理小説の老舗出版社として知られています。

 

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「私のSF遍歴」というほど編年体でもなく、まとまってもいませんが、

そんなこんなで、現在の星新一好きでトレッキーなオッサンが出来上がったわけです(笑)。

 

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ご訪問ありがとうございました

  

独言居士8、空想科学小説三部作 星新一愛に続きます

 

今回も怪しいとこがあったかも

しれません

?な内容がありましたら

ご指摘いただければ

訂正して

さらに勉強させていただきます

 

記:現役老人

 

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