独言居士6、空想科学小説三部作

私のSF遍歴(前編)

ご訪問

ありがとうございます

 

歳をとって独り言が多くなってきました

独言居士というテーマで

何か書いてみます

老人の繰り言です

読み流してください

 

第六回は

「空想科学小説三部作 私のSF遍歴(前編)」

です。

 

空想科学小説三部作です

※1、私のSF遍歴(前編)

2、私のSF遍歴(後編)

3、星新一愛について

 

『禁断の惑星』ポスター

 

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私のSF履歴(前編)

 

私の世代は読書好きが多く、

「今何読んでる〜?」

とか

「どこまで読んだ〜?」

なんてことが日常会話によく出てました。

小学生の頃、田舎では貸本屋がまだあって

単行本(主に漫画本)を借りたり、

貸本の又貸し(禁止行為!)なんかもしましたね。

そんな時代の男の子たちには、空想科学小説が人気でした。

古本屋には、戦中・戦前の空想科学小説がまだありました。

手塚治虫の古い漫画本などは、結構乱暴に扱ってましたが、今となっては超貴重本ですね(汗;)

SF小説という言葉が日本語として認知されてきた時代です。

 

※※※手塚治虫※※※

田舎の貸本屋でよく読んでたのは、

手塚治虫の作品です。

 

手塚治虫(Wikipedia引用)

手塚 治虫(てづか おさむ、1928年11月3日 - 1989年2月9日)は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。本名は手塚 治(読み同じ)。

戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町。大阪帝国大学附属医学専門部卒業。

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。

藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。

 

YouTubeに「徹子の部屋」に出演した時の動画がありましたのでご覧ください。

(画像にリンクあり 古い物なので画質はイマイチです)

 

手塚治虫の作品については私が語るのはおこがましいので(汗;)、TEZUKA OSAMU OFFICIALのHPをご覧ください。リンクを貼ってあります。

 

私は、手塚治虫の漫画で育ったと言っても良いように思います。

空想科学小説への興味も、手塚治虫から始まったんだと思います。

最近のAIブーム?でいろんなクリエイター(自身の技術・スキルを使い、さまざまな発想を具現化する人)がトライしてますが、YouTubeにこんな記事の動画がありました。

(画像にリンクあり)

 

道具としてのAIを否定しませんが、手塚治虫の時代を生きてきた人間としては、その作品のバックボーンに手塚治虫という人間の発想力とか、アイデアとか、生き方(トキワ荘時代)みたいなものにとても魅力を感じています。

AIで作られた作品(と言えるかどうか?)は、それなりに面白いと思いますが、思い出に浸る老人(汗;)としては、ちょっと違うよな〜と思ってます。

手塚治虫のデジタルリマスターぐらいが、私の許容範囲かな?

クリエイターって、一体なんなんだろうね?

 

※※※海外の作家※※※

SF小説の歴史は?と言うとちょっと難しくて、書ききれないので、有名どころ御三家?を書いておきます。

御三家には異論もあります(笑)

 

ジュール・ベルヌ

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ(1828年〜1905年)は、フランスの小説家。ハーバート・ジョージ・ウェルズとともにSFの開祖として知られています。

 

 

 

ハーバート・ジョージ・ウェルズ

ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866年〜1946年)は、イギリスの作家。「SFの巨人」と呼ばれますが、社会活動家や歴史家としても多くの業績を遺しています。

 

 

 

アイザック・アシモフ

アイザック・アシモフ(1920年〜1922年)は、アメリカ合衆国の生化学者で作家。その著作は500冊以上を数え、科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたります。

 

 

アイザック・アシモフは、1950年に発表した『われはロボット』の冒頭部分において、

 

「人間に危害を加えてはならない」

「人間の命令に従わなければならない」

「自己を守らなければならない」

 

というロボットの行動を支配する3原則を示し、

この3原則は、

現代のロボット工学に引き継がれ、

守られている

はずです・・・よね?

 

※※※特撮、怪獣ブーム※※※

映画やテレビなどで円谷プロダクションの作品が人気を得て、1966年〜、1971年〜、1978年〜に3次に渡って特撮ブームと言っていい時代になってきます。

 

円谷英二

 

円谷英二物語

円谷 英二(本名 英一)は1901(明治34)年7月7日、福島県須賀川市に生まれました。

 

1916(大正5)年に尋常小学校を卒業し、飛行機乗りを目指して日本飛行学校に入学するものの、学校が事故によって閉鎖してしまいます。

夢破れた円谷は、新たな進路を神田電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部入学へと進めます。

学費の足しにと、玩具会社で玩具の企画立案や、実際の商品発明に携わる嘱託考案係として働くようになります。この頃、偶然に映画関係者と知り合ったことが縁となり、18歳の円谷はカメラマン助手として映画人としてのキャリアをスタートさせます。

円谷が映画界入りをした頃は日本映画界の勃興期で、日々映画の撮影の仕事に追われながらも、様々な撮影技術や機材の研究開発に専心し、また海外の技術も研究してその実践、実現に情熱を傾けて行きました。

現代の撮影技術にも、円谷英二が発想し作り上げたものが多く使われています。

円谷は早くからミニチュアを使った撮影や、フィルムの合成技術を駆使した映像表現に着目し、特殊撮影技術の考案、実現にも貪欲に取り組んでいました。円谷は特撮技術を創造した第一人者であり、「特撮の父」と称されています。

その集大成として、東宝で戦前には『ハワイ・マレー沖海戦』、

 

そして戦後には怪獣映画『ゴジラ』という空前の大ヒット作を生み出します。

 

日本ばかりではなく、海外にも特撮映画の評判は響き渡り、「ゴジラ」は世界共通語のように知られることになりました。

円谷の特撮は、ミニチュアを巧みに操る井上泰幸などの職人たちの飛び抜けた技術と、徹底的な精密さなどを土台として、円谷の考え抜かれた特撮技術によって、空想の世界を体感しているような臨場感を実現させたものです。

技術とエンターテインメント性の両立が、円谷の特撮の本領と言えます。

井上泰幸(1922~2012)は『ゴジラ』や『空の大怪獣 ラドン』をはじめとする特撮作品の美術を手掛け、須賀川市出身の円谷英二監督の右腕として活躍しました。

 

円谷は、映画に代わり人々の娯楽として定着し始めたテレビという新しいメディアに注目します。

映画で培った技術をテレビという新しい環境に持ち込み、映像制作会社「円谷特技プロダクション」、現在の「円谷プロダクション」を立ち上げます。

第1回製作作品の『ウルトラQ』が評判となり、日本中に怪獣ブームが巻き起こりました。

 

こうして怪獣と巨大ヒーローが戦うという斬新なコンセプトを持ち込んだ『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』が大ヒットを記録。

 

コメディ企画『快獣ブースカ』、人間ドラマ『怪奇大作戦』、ミニチュア特撮『マイティジャック』などの作品が円谷に学んだ多くの技術者たちによって生み出されて行きます。

テレビでの成功を収めた後も、映像制作、様々な映像企画のプランニングがあり、精力的に活動を続けていましたが、体調を崩して療養に入った矢先、1970年1月に療養先の伊豆にて永眠しました。

 

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東宝三大怪獣、モスラやラドンの話も書きたかったのですが

怪獣の話は長くなるので

この辺で・・・

 

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ご訪問ありがとうございました

  

独言居士7、空想科学小説三部作 私のSF遍歴(後編)に続きます

 

今回も怪しいとこがあったかも

しれません

?な内容がありましたら

ご指摘いただければ

訂正して

さらに勉強させていただきます

 

記:現役老人

 

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