いきなりでアレですが、これは自宅のごく近所に存在する旧広島陸軍被覆支廠倉庫の鉄扉です。

 

不自然に大きく歪んでいるのは昭和20年8月6日、世界で初めて核兵器として使用された原子爆弾の爆風によるものです。

 

 

当日8時15分、アメリカの爆撃機B29エノラ・ゲイから投下されたウラン型原子爆弾・通称リトルボーイL11は広島市のほぼ中央、島病院の上空600mで炸裂しました

 

 

 

爆心地から2.7㎞も離れていながら炸裂方向の西面の鉄扉はことごとく歪み、その凄まじさを今に伝えています。

 

被覆支廠という戦後世代には馴染みのない施設ながら、明治より存在するこの巨大な建造物は地元のランドマークと言えるもので、地元商店街に「被覆廠通り」の名を遺して今に至ります。

 

4倉庫が500mに亘って現存するレンガ倉庫群です。

 

とは言っても戦後70年、近隣の計画道路の開通・地区開発・高層建物の建築によって住宅街の中に埋没しつつあり、今では地元でも特に意識しなければ判らない建築物となってしまいました。

 

若い頃は犬のご近所散歩コースになっていたので、良く廠をぐるりと一周したものですが、レンガ伝いに歩いていると壁面の歪んだ鉄扉の中から明かりや話し声が聞こえてくることもありました。

 

昔は地元大学の学生寮や運送会社の倉庫として活用されていたのです。

 

しかしその後学校や企業が利用することも無くなり、市の被爆建物台帳に載ってはいるものの、ここ20年間は放置された状態となっています。

 

地盤の不等沈下・経年劣化による建物の傷みが進んでおり、再利用に際し耐震補強に莫大な費用が見込まれる為に、具体的な対策が見いだせないようです。

 

 

今は、ただ無言であの日の姿を留めています。

 

 

祖父・祖母、そして父もあの日この地で被爆しましたが、その事について語る事はほとんど無いまま鬼籍に入りました。

 

これは多くの被爆者がそうしてきたように、人に語るべきものではないと思っていたようです。
また、とうてい語りきれるものではないとの諦念の様な思いがあったようで、それは重い口を開いて言ったある被爆者のこんな言葉が表しています。

 

「たいがあの事は後でなんぼでも大げさに言うことが出来ようが、原爆の事だけは、
   あの事だけは、なんぼ言うても伝えられん。」
「どおやっても言葉ではいえん、わからん事なんよ。」

 

 

その惨状を詩人の峠三吉はこの被覆支廠で経験しました。

彼もまたこの地獄絵図を言葉にできないもどかしさに苦しんだものの、詩集として後世に遺しています。

 

仮繃帯所にて
あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち
(中略)
何故こんな目に遭(あ)わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
(中略)
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

 

 

「倉庫の記録」では、その日支廠に担ぎ込まれた負傷者達の阿鼻叫喚の様が二日目の朝には嘘のように静かになり、二日目、三日目と死を待つ絶望の人とみとり手が蠢くうち、八日目には倉庫はがらんどうとなったとあります。

 


「歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空き地に積み上げた死屍からの煙が上がる
(中略)
――収容者なし、死亡者誰々――
門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。」

 

 

 


現在の倉庫内部
「旧広島陸軍被覆支廠倉庫 見、知り、訪れ、思う」アーキウォーク広島より

 

 

・・・・・

 

 

かつて市内のそこかしこにあった被爆の痕跡も、気が付くと随分無くなってしまったことに気が付きます。

 

人も物も時の流れには逆らえませんが、残されている物を再認識すること・記憶にとどめることはできます。

 

 

近所で廠以外に残っている、あの時何が起こったのか伝えているものとしては・・・・・

 


頼山陽文徳殿

昭和9年に頼家の墓地に隣接して建立された記念館。
広島市の被爆建物リストに名を連ねていますが、何の活用もされず何十年も放置状態。

 

爆心より1.82㎞の距離で被爆

屋根の九輪に熱風による変形が残っています。

 

 

多門院鐘楼の天井
上記頼家一族の墓所がある寺院境内の鐘楼。爆心近くに現存する最も古い被爆木造物と言われています。

 

当時の破損した梁と天井板のまま保存されています。

 

 

・・・・・

 

 

原爆被害で壊滅的な状況を生き抜いてきた市井の人々が痛切に願った心の表れか、戦後市内の建物名や屋号には平和○○というものが数多くありました。

 

その多くも今では無くなりつつありますが、近所で残っているモノ・・・・・

 

 

広島市営平和アパート
被爆4年後に作られた鉄筋コンクリート造のアパート。
築70年を迎えるも、また現役。

峠三吉も築後数年間を住まいとして、前を流れる川を詠みました。

 

国内で最も古い公営住宅と思われます

 


平和塔
かつての日清戦争に勝利した帰還兵を出迎えるためのモニュメントとして作られた凱旋碑。明治の世に築造されてから120年を超えます。
頂部の勇ましい鳶の像は大戦中の金属供出を免れ、昭和20年のあの日には爆心から2.5㎞の距離で被爆したものの、倒壊することはありませんでした。

 

かつてはそれなりの広い空地でしたが、今は碑だけになりました

 

戦後は進駐軍に配慮して自ら凱旋碑の名をモルタルで塗りつぶし、平和搭と名を変えて今に至ります。

敗戦国の卑屈な感情をかいま見る思いです。

小学生時代には「鷹の公園」といって塔の下で何も知らずよく遊んでました。

 

 


平和湯
原爆スラムの跡地に作られた市営基町高層アパートの一角にある公衆浴場。
このご時世、開業40年を超えて経営は苦しそうですが、風呂屋好き者としては何とか続けて欲しいと思っています。

併設のサウナは随分前に閉じられましたが、浴室のやたらに広い(笑)洗い場は一見の価値ありです。

 

営業時間が短くなっているのが気になります

 

 


当然のことながら、市の中心部には爆心直下にありながら倒壊を免れた平和記念碑(通称原爆ドーム)をはじめ平和公園・平和大橋などがあり、平和と名がつく建造物は枚挙にいとまがありません。

 

 

その中でも、昭和29年に献堂された世界平和記念聖堂は平和祈念資料館と共に広島市にとってエポックメイキングな建物でした。

 

 

記念聖堂のロゴマーク

建設計画時の名は「広島平和記念カトリック聖堂」でした

 


今聖堂は大規模な耐震工事の真っ最中ですが、今年もありました

 

アドベントの時期に境内に飾られるプレゼピオ。
クリスマスを迎えると中央の飼い葉桶にみどり子が置かれます

 

 

この聖堂に建造されたオルガンが私のオルガンとの邂逅となっていくのですが、その話は項をあらためて語りたいと思います。