1998年2月17日、雪が舞い散る中で行われた長野五輪ジャンプラージヒル団体。

 

1回目、メンバー4人のうち2人目終了時点で日本は首位。3番目が原田雅彦選手でした。

しかし彼のジャンプの直前、降雪が更に激しくなり殆ど前が見えないような状態へ。

梅之助も当時TV中継を見ていましたが、原田選手がアプローチに入った瞬間、「あ、これはまずい」と思いましたよ。助走路を滑るTV画面の姿がそれまでの誰よりも酷い雪でよく見えないのだもの。

スタートを切った原田選手のジャンプは助走路に雪が積もってアプローチ速度が出ず、79.5mの失速ジャンプに終わってしまいます。

彼と同グループの選手も多くが100mに届かないなど軒並み距離を落としたのですが、それでも原田選手の場合は直前に飛んだジャンパーのアプローチ速度と比べて1.8km/h、同グループで一番速かった選手と比べて3km/h以上遅くなるという、非常に厳しい条件でした(結果的に原田選手と直後の選手だけが最悪の条件の直撃を受けていた)。

 

長野五輪ジャンプ団体 原田雅彦選手 1本目競技直後 (朝日新聞デジタル より)

 

この時の原田選手の心中、察するに余りあります。

その後4人目の船木和喜選手が118.5mを飛ぶも、1回目が全て終了した時点で日本は4位に転落。

 

悪天候のまま競技は2回目に入りましたが、各国選手の失敗ジャンプが続いた為に審判団は2回目を全てやり直す事にし、改めて天候の様子を見る事にして競技は一時中断となります。

ただし天候次第では1回目の結果をもって打ち切りとなり、それが最終順位となる可能性もありました。

原田選手の奥様は小さいお子さんと共に観戦していた事もあって、

「自分の失敗でメダルを逃す事だけは避けてほしい」

という言葉を残して、会場を後にしました。もう、本当に居たたまれないですよね。

 

原田選手のジャンプスタイルは、彼の持つ並外れた跳躍力を活かして踏切の際に上に高くジャンプし、通常のジャンパーよりも高い軌道の飛行曲線を描くのが特徴でした。

しかしこのスタイルは助走速度が遅い条件でも飛距離が落ちにくいという長所を持っている一方、踏切のタイミングが合わないと大失敗ジャンプになりやすく、それがリレハンメルの失敗に繋がっていたのです。

リレハンメル後、彼はジャンプフォームの改良に乗り出すも、全く結果が出ずに低迷。焦りが続き、それを抱え込んでしまう原田選手に「自分らしく飛べばいいんじゃないの?」と声をかけ、本来のフォームに戻す事で復調するきっかけを作ったのも奥様でした。

 

競技は続行か終了か。

大して天候が回復していない中、競技継続の可否はテストジャンパーに委ねられました。次々にシャンツェを飛び続けるジャンパーたち。

ここにもう一つの知られざるドラマがあるのですが、その物語は映画「ヒノマルソウル」で描かれているので、後日に改めて。

 

競技再開、2回目の開始となりました。

日本の1番目、2番目の岡部孝信、斎藤浩哉選手の活躍でチームは息を吹き返します。

そしてさあ、原田雅彦。

「(もう、両足が複雑骨折してもいい・・・)」

 

長野五輪ジャンプ団体 原田雅彦選手 2本目 (朝日新聞デジタル より)

 

ジャンプラージヒル団体(NHKの良くまとめられた番組動画の一部抜粋です:約7分)

 

「今度は高いぞ、高い、大ジャンプだ原田!別の世界に飛んでいった」(実況NHK和田源ニアナ)

飛距離は個人ラージヒル時を上回り、岡部選手の2回目と並ぶ137m。

運営は15日の原田選手のラージヒル個人の飛距離を受けて、140mまで計測出来るようにしていました。

 

最終ジャンパーの船木選手のジャンプで日本は悲願の団体金メダルが確定。

抱き合うチームメンバーに、ランディングバーンを雪まみれになりながら滑り下りてきたコーチたちも駆け寄ります。

幼子のように言葉もままならない原田選手。

「辛かったよ・・・またみんなに迷惑かけてしまうのかと思ってた・・・辛かった・・・でも屋根ついてないからしょうがないよね・・・」

「俺じゃないよ、みんななんだ、みんな・・・」

リレハンメル以来背負って来た十字架を下ろすどころか、もう一度再現させてしまうかもしれない所まで追い詰められた苦悩と恐怖から、ようやく解放された姿でした。

 

文春オンライン より

 

原田選手と共に最長不倒を記録した岡部選手が、金メダル決定後に自身のジャンプについて問われた際のコメントがまたなかなかユニーク。

「1人、やる気にさせてくれた選手がいましたから」

原田選手をよく知り、チームで勝利を達成したからこそ言えるウイットです。彼は後日、

「第3グループのあの悪天候では・・・(低速でも強い)原田さんでなくて僕や斎藤、船木ならもっと上で落ちてしまったかもしれない」

と語っています。岡部選手はリレハンメル団体のメンバーでもありました。

 

梅之助は長野五輪終了後、当時30歳を迎える原田選手の明るくユーモアのあるキャラに注目して、スポーツタレント転身への打診がTV業界からあったのではないかと思っています。

しかし彼はその後も一競技者としてあり続け、また船木選手やスケートの清水宏保選手のようにプロ化を目指す道を選ぶ事もなく、現役引退後も所属企業に在籍し続けました。

 

その大ジャンプで国民を歓喜の坩堝(るつぼ)へと巻き込み、時にどん底に叩き落としながらも、振り返ってみればなかなかお目にかかれないドラマを自らのジャンプで日本人に見せ続けてくれた原田選手。

結局、長野五輪の個人ノーマルヒル、個人ラージヒル、団体ラージヒルの全競技の最長不倒は全て彼の記録でした。

 

因みにノルウェー・リレハンメルのオリンピック記念館には、今でもジャンプをミスしてうずくまる原田選手の写真が展示されているそうです。よほど当地の人々も印象深かったのでしょう。

そんな失敗を含めて、この愛すべき原田雅彦こそ日本のミスタージャンプでした。

 

 

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