現在の世田谷線に関する特許は、玉川電気鉄道が大正10年に申請し翌年の大正11年に取得しています。しかし、ひょっとすると既に明治時代に世田谷線の一部区間(厳密には世田谷通り沿いの区間)について特許が下りていたかもしれない、というお話です。
明治34年に、内務省から陸軍に対して玉川砂利電気鉄道延長線特許に関する意見照会が行われ、それに対する陸軍からの回答に関する文書が残っています。それによれば、世田谷の砲兵営と青山練兵場の軍隊の往復に使う道なので、軌道を設置しても、その脇に一定の道路幅員を確保することを、陸軍が軌道敷設を認める条件として回答しています。これはこれで興味深い内容なのですが、内務省からの意見照会文書の中で気になる一文を発見しました。玉川砂利電気鉄道が申請した延伸線の内容に関する文章です。

出典:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04013838900、 明治35年8月 「壹大日記」 (防衛省防衛研究所)」
流暢な文字で書かれているので読むのに苦労しますが、赤枠(私が追加したもの)の前後は以下のように書かれています(たぶん)。
「世田谷村字太子堂(三軒茶屋)ヨリ分岐シテ同村字世田谷既特許線起点地ニ至ル里道ニ布設ノ義ヲ出願シタルモノニ有之」
ここで問題になるのが、「既特許線起点地」という表現です。素直に考えれば、既に特許が下りていた路線(区間)があり、その起点が世田谷村字世田谷ということになります。実は玉川砂利電気鉄道は、明治29年に世田谷から多摩川方面(和泉)への特許申請を行っています。「既特許線」が、その申請路線の一部を指すのは間違いなさそうです。これまで、玉川砂利電気鉄道が最初に特許を取得したのは、明治35年の渋谷から玉川までの区間とされてきましたので、それ以前に特許取得路線があったとすると、新しい発見になります。さらにこの路線は、世田谷区における最も古い鉄軌道の免許(特許)取得路線ということになります(実現はしなかったものの)。ただし、「既特許線」が「既特許(申請)線」を意味している可能性も完全には否定できませんが・・・
結局のところ、この「既特許線」に該当する区間が建設されることはありませんでした。もし本当に特許を取得していたとしたら、どこかの時点で特許を失効させてしまったことになります。それがいつのことなのか、なぜ失効させてしまったのか、新たな謎が生まれてしまいました。