招く手の幽霊 | 静寂の理(シジマノコトワリ)

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自我との対話でつかね~?


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昨日の続きなんですねぇ・・・☆



水木しげる大先生の著作「妖鬼化②中部編」にて

「招く手の幽霊(まねくてのゆうれい)」として

紹介されておりました内容を若干脚色しつつ(←)ご紹介。


せっかくなんで・・・というかお約束なので

淳ちゃん口調で語らなきゃいけないような気がしていますよ。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


昔、飢饉で全滅してしまった村があったんですねぇ。

折からの天候不順、災害などもあって・・・田畑が荒れ果ててしまった。


食べ物はとうに尽きてしまって、

草や木の皮を煮て食べるようなのは初期段階ですよ。

終いの方には、先に死んでしまった家族の肉を食べざるを得ないような

極限状態の果てに・・・結局村人全員が果ててしまった。



それから何十年もあとになってからなんですが・・・

旅のお坊さんが、この村の跡を通りかかったんですねぇ。


すると・・・


ザッ、ザッ・・・ザッ、ザッ・・・


自分の後を、ついてくる足音がある。


(ははぁ・・・そうか、これはきっと、この村が飢饉のとき、

 あきらめきれない最期を遂げた、村人の亡霊に違いない)


そう思ったこのお坊さんは、懐から紙を取り出すと、経文を書き記した。


そしてそれを持って村はずれまで歩いていき、

崩れかかった古いお寺の門の中の暗がりに向かって差し出した。


するとその暗闇の中からスーッと、しろ~い手が伸びてきて

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お坊さんがお経を書いたその紙を受け取ったと思うと、

また「すぅーっ」と、闇に溶けるようにして、

経文ごと その白い手も、消えてしまったんだそうですよ。



お話はここまでなんですがねぇ、


水木しげる大先生は、こう付け沿えていらっしゃいます。


「浮かばれない霊というものは、自分の供養をしてもらいたくて

われわれの近辺をウロウロしているという。

供養といえば僧侶だから、そういった霊は寺や僧侶に集まるのか。」



なるほど、と思いますネェ。

こう考えると、前回の記事で紹介した、

狩野英孝さんの幼少の頃の体験も、

あるいはこういった霊だったんじゃないか・・・?


私はそう思ってしまうんですねぇ。


供養というと、普通は血のつながりのある縁者、家族が行なうもの。

しかし、家族もろともに亡くなった人たちは、どうなんでしょう?


神社仏閣、僧侶、寺院。


こういったところに、救いを求めて現れる。


そういうケースが、考えられはしないでしょうか・・・。



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