2012年4月から絵を習い始めた。途中コロナで休みが多かったので、今年で実質10年習ったということになるだろうか。

 絵を習い始めたのは、音楽は家で練習しなければならないが、絵は教室に行けば描く、と友達に言われたからである。努力嫌いの私には嬉しい言葉だった。音楽の稽古事の場合、教室に滞在するのは長くても1時間ほどのことだろう。絵であれば、最低2時間は教室にいる。暇潰しは長いほうがいい。

 

 父の遺したパステルがあったので、カルチャースクールの毎週のパステル画教室に加入した。構図の取り方もパステルの使い方の指導もなく、ただただ自由に描いて、バックのことだけを指導する先生であった。形が正しくとらえられていなくても、「絵の欠点にならない」というので気楽だった。

  

 夫もこの先生のもとで一緒に絵を習った。一年後、夫の脳劣化が緩やかになっていると見受けられ、絵の時間を増やすことになった。毎週通えるクラスはデッサンクラスだった。この先生からは「見たとおりに描けばいい」ということを繰り返し教え込まれた。対象を見れば見るほど新しい発見がある。デッサンの楽しみを知ることになった。脳の劣化が進むにつれ寡黙になっていった夫は、しかし、この先生のデッサン力はすごい、としばしば口にしていた。残念なことに、癌発見からほどなく他界されてしまった。

  

 夫に絵を描き続けて欲しかったので、違うクラスに参加した。夫とは波長が合わない先生だったが、私は今もこの先生のもとに通っている。この先生からは形を正確に描くことを厳しく指導されている。動物ならば「脊髄はこうなっているから、外側がこう見える・・・」といった具合である。今回展覧会に出品した弓取り力士の絵は、弓取りをする力士の写真をただただ再現させたものだが、評判が良かった。力士の弓取り中が絵になっていることが珍しいからでもあるだろうが、この先生の「形を正しく描く」薫陶のおかげで、弓取りの一瞬の動きに違和感がないからだろう。

 

 2017年に夫が急逝し呆然とした私は、空白の時間を減らすために絵のクラスを増やした。が、半年でやめている。先生が構図を決めてしまい、自分なりの構図で描くことができなかったからだった。

 

 2018年に母も逝き、実家の片付けも終わって、更に時間を持て余すようになった。このため、2018年から区の施設を使うクラスへ参加した。油彩も水彩もパステルもなんでも習えるクラスである。自由に描いて良いので今に至っている。ここで学んだことは、絵にアクセントをつけることだった。先生が一本の線をひく、あるいは、ちょっと濃い色などを塗ると、絵が活き活きしてくるのであった。

 

 2020年、カルチャースクールは廃校となった。通うクラスが2つになってしまったが、一回2千円払って参加できる人物画の会、先生なしの女性だけの絵の倶楽部などに参加して、一ヶ月に10回、絵を描きにいっている。

 

 女性だけの絵の倶楽部の人達は、一人と私をのぞいて、公募展入選者である。公募展入選は、単なる周囲の「上手い」という評判とは違い、客観的な評価にみえる。パステル画は早く描けること、私自身が粗製濫造でもあるからだが、これまで500枚ほどの絵を描いてきている。枚数をこなしたせいか、絵の評判はそれなりのものとなってきてはいる。しかし、公募展に入選しているわけではない。私に入選する実力はあるだろうか。

 

 絵を習い始めたとき、公募展に応募するようになると、入選にこだわって絵を楽しめなくなるので、挑戦したいなら10年習ってからにしなさい、と言われたことがあった。絵を描いて10年経った今、試しに公募展に応募してもいいのかもしれない。

 

 最近、かつてパステル画のクラスに在籍していた人とバス停で出くわした。パステル画をやめて水彩画に変更し、何回も公募展に入選している実力者である。お互いの所属する会の展覧会に見に行く関係でもあるので、最近の私の絵について「野性味が減り、完成度が高くなりましたね」と評したのだった。一瞬、ほめられたように感じたが、野性味が減ったということは丁寧に描くようになったということだろう。完成度が高くなったといっても、10点満点の完成度で1点から2点になっただけかもしれない。この言い方は実態を隠せる素晴らしい言葉であった。

 

 私の絵は対象を愚直に描くだけのものである。着想、表現の仕方に独特のものがあるわけではない。愚直でも絵にサムシング=「何か」、あるいは「味」のようなものがなければ他流試合に出ることは難しいと思われる。

 

 教育書には、他人と比較せず、子供の過去の状態と比較して、その成長をほめなさい、とある。この言葉を私にも当てはめよう。10年前の私の絵と今の絵を比べれば、うまく描けるようになっているのは確かである。それでいいのだろう。