【〜病院と患者と病の関係〜】
今日は6月の緑内障手術に向けての検査と診察のため名大病院にきています。
こうやって定期的に病院にくると半年ちかく病院に通院、入院していたときのことを懐かしく思います。
当時の私はすべて医者まかせ。
レールに乗ったまな板の上のマグロ🐟状態でした。
それから1年半近くガンという見えない病に怯えて不安をぬぐうために定期検診に通院することに違和感を持ち、医者や病院との関係を断りました。
不安があるから病院にいき、検査結果を聞くまではさらに不安になり、大丈夫で安心してホッとしたのも束の間、翌月はまた検査。
そんな1年半、、、
病院と関わっている限りはずっとガン呪縛にかかった状態で生きている実感を持つこともできず、人生を楽しむなんてことはできないと思ったのです。
病院とは生を養うところではなく、病をなくすために生を削るところでもあると思うのです。
そして、それに耐える体力や気力があればいい結果となる事もありますが、もし無かったとしたら・・・・・
またそうならないためには、自分で生を養うこと『養生』って必要だと思いませんか?
養生とは、命の主導権を自分に引き寄せること。
即ち養生をして生を養うことで命の可能性は無限に広がるということなのです。
とはいってもそれは決して気合いや頑張りだけで広がるものではないし、医者の腕や薬だけではどうしようもありません。
それなのになぜが多くの患者さんは、病は医者が治すもので、患者はまな板の上の鯉状態で何もしないし、それに疑問も持たない方がとても多いというのが現状です。
でさ、病院とは?
病を治すところではなく、病人を作るところ
私たちが病院に行くときとは、もしかしたら病気では?と思ったとき。
それは呼んで字のごとく、病を気にしたときですね。
そして、病院にいくとその人に”疾患”という病名を与え、そのときから、その人は病人になってしまうのです。
つまり病院とは、病気という人の心が所有するものを、疾患という人の体(臓器)が所有するものに置き換えるための場だと思うのです。
そして、病を気にして病院に来た人は、疾患という名前をつけられることで“安心”します。
“安心”すると書くと、そんなことはないと思う人が多いかもしれませんが、もし病院で疾患という名前をつけられなかったら、こんなに体調が
悪いのにどこも悪くないなんて・・・・
と不安になり、また別の病院に行くのではないのでしょうか?
おかしな話ですが、病院とは不安を安心に変えてくれるところなので、多くの人は病院から離れられなくなってしまうのです。
一旦は安心したとしても、病院は対処療法で症状はとってくれますが、病の根源は治せません。
すると、また不安を引き起こし、また病院にやってくるという不安連鎖の方程式にはまってしまうのです。
この安心ってやっぱりおかしいと思いませんか?
なので私は病を気にしたとき、見せ掛けの安心ではなく、病を気にしなくて良いような状態になること、すなわち“元気になる”ことを目指すことが必要だと思います。
そのためには、やっぱり病の根本原因となっている生き方、つまり体と心の使い方を変えることが大切なのではないでしょうか?
でも、病院にはその機能はありません。
そして病院以外にも、本当の意味での安心を得るために、支えあったり、学びあったり、高めあえる場ってほとんど存在しないような気がしました。
特に心の安心は。
だから私は病気の人に安心を導き、元気になってもらえる場として“めぐみの会”をつくったのです。
病院は火事になったときに消防署のようなもので、燃え盛る火は消してくれます。
しかし、消防署があるから安心して火事になれるなんてことありませんよね。
ならば、火事にならないような注意を行き届かせたり、もし火事になってしまったら初期消火ができるような体制を整えたり、消火した後のぼろぼろになった状態を協力し合って復興することができる場や仲間って必要だと思いませんか?
火の用心も大切ですが、そんな場や仲間を作りたいと思い、私は病気や病人が集まる会ではなく、ガンを経験した人たちが人生を楽しむことを目的として、ガン経験者の会として『めぐみの会」 を作ったのでした。
そんかなかでの今日の名大病院は治療ではなく失明を先送りするための処置と目の状態を確認するための通院です。
近い将来、見えなくなることを前提にしているせいか不思議なことに不安はなく、それまでの時間を伸ばして、有限な時間でできることはすべてやろうと思っています。
そして、今日は病院の前には見えなくなってもより良く生きるための、『白杖の歩行訓練🧑🦯』
そんなことで今日は改めて、どんな状況になっても、『生きることを養う!』そんな気持ちを持って生きたいと感じました。