『治る実践カウンセリング』心理カウンセラー我那覇隆裕のブログ -2ページ目


 幻覚症状のあるクライエントがいました。その五十代の主婦は当初、子供の不登校の相談ということで私の相談室にやってきました。

 子供についての相談のつもりが、私はその方の表情を見て驚きました。そして、どれ程のストレスを受けるとこのようになるのかと思いました。

 彼女の顔は、極度にこわばり、そして引きつっていました。もしカウンセリングを行わなかったならば彼女はどうなるんだろうかという思いがふと私の頭の中によぎりました。

 また、どれ程の心理的圧力が発生しているのだろうかとも思いました。


 

 不適応症に苦しむ人には、皆例外なく子供時代のつらい被養育体験があります。


 彼女の場合もそうでした。母親に愛されているという感触を味わったことが一度もないと言います。それでは自分の子供が愛せない。愛し方を知らないということになり、不登校児の発生へと繋がっていったわけです。

 世代間連鎖という用語をつくって分類整理しても目の前のクライエントは救われません。


 そこで、私はカウンセリングが必要なのは子供さんの方ではなく、むしろあなたの方ですと言って彼女を先に救うことにしました。


 

 気持ちもほぐれてきたのか、3度目頃の面接で彼女が意外なほどさらっと「幻覚を見ています」と言い出しました。

「いつ頃からですか?」と訊くと、「もう大分前から、10年少し前から。」と答えます。

「今も見えるんですか。」

「ハイ、ずっと見えています。自分の右斜め後ろに子供が立っています。」

「それでその子は何をしているんですか?」

「いつもそうなんですが、今も私に大きな声できつく悪口をなげています。」

「いいんですよ、そのまま放っておいて。それより、カウンセリングを続けましょう。」


 話を続けながら私は時折、彼女のいう子供の立っている場所に視線を向けていました。対象がないのに、本人には、リアルに見えているという不条理の世界を、そして、現実と非現実の重なる空間という特異性をよーく考えていました。


 彼女が幻覚の事を打ち明けたのは、当然、次の質問の為です。

 「こういう状態になってしまった私は、精神病ですか?」


 私は先ほどまで考え続けて出した結論を言いました。

 「もちろんあなたは、狂ってなんかいません。精神を病んでいないと私は思います。なぜなら・・・」


 およそ、カウンセラーならここが切所(重要な場所)と気づかなければいけません。

 この後にどういう言葉を続けるべきなのか、そもそもどういう方向へ展開させべきなのか。つまり、カウンセリングの成否を決める場面であると知るべきでしょう。

 カウンセリングの実践では対応次第でピンチにもチャンスにもなるような流れが必ず生まれます。これを逃してはいけない、ということです。


 私は、彼女の不安の発露を、うまく安心のきっかけに形を変えました。ありったけの説得のレトリックを駆使したのです。その後、心がゆるやかになり、表情も生気を取り戻しました。


 その結果として彼女の幻覚症状は消失したのですが、例によって本人は自覚がないのです。

 私に「まだ見えますか?」と尋ねられて初めて幻覚消失に気づきました。


 

 人の目はものを見ようとしています。幻覚にもきっと効用があるのです。

 ところで幻視の子供の正体は?ということでカウンセリングの中で確かめたところ、なんと小学校時代の本人でありました。

 私も彼女も意外な思いに打たれたものです。




 







※例によってプライバシー保護の為、内容の一部を本質が変わらないように変更しています。


 ある、二十代の女性が自傷行為が止められないという事で私の相談室に来ました。自傷行為のほかにも強いウツやパニックの発作等があり、心療内科にも通っているとの事でした。カウンセリングで彼女は私に真っ先に言いました。


「ここではどういうカウンセリングをするのですか?話を聴くだけのカウンセリングならいりません。」


と。

その顔には不満や、不審がありありでした。私も、お話は必要なら聴くし、必要なければ聴きません。その判断は私がする事です、とはっきり言いました。


 更に彼女は単刀直入に、なぜ自分はリストカットが止められないんでしょうかと質問してきます。半分は私を試しているのでしょう。相談相手として、カウンセラーとしての能力を知りたかったに違いありません。


 私は先の質問に、あなたの主治医の先生は、なんと言っていましたかと逆に聞き返しました。彼女によると、主治医は、

「あなたには強い自罰意識がある。」

と言ったそうです。


 私は、それには論評せずに

「必要だから切るのです。そして、自らの体を切りつけることによって自らを守っているのです」と答えてあげました。



 その答えは彼女にとってとても気の利いたものだったらしく、軽い衝撃さえ感じたようです。すぐに続けて私は、解釈を加えてゆき、彼女の納得を得ました。


 心のストレスが肉体に転化されるのは、ごく常識です。

 その端的な例の一つが自傷行為というわけです。


 彼女はとても理解が早く、かつ又取り組みが真剣でしたので、スムーズに回復してゆきました。

 特に感情の浄化作用が上手くゆきました。人がカウンセリングを通して良くなっていく時、なかなかそのプロセス自体には気付けないものです。つまり、人は変化の最中(進行そのもの)を意識する事ができません。

 彼女も本人的には納得しているとの事(治った理由)は、実のところそれではないのです。


 彼女は心理学やカウンセリングを学びに来たわけではないのですから、本当の理由(機制)は担当カウンセラーである私が分かっていればいいのです。


 大体の場合、クライエントは回復能力、復元力を失ってしまったが故の精神病なのです。カウンセラーが治すのではありません。本人が忘れてしまった元への戻り方、あるいはまだ知らないでいた治り方を思い出させたり、新たに教えてあげたりして、本人に治ってもらうのです。


 彼女も比較的早いペースで回復してゆきました。今では立派な社会人として仕事に励んでいます。性格も穏やかになり、周囲とのコミュニケーションも良好です。七年越しの向精神薬も本人の希望ということで減らしてゆき、やがて完全に止められそうです。


 心のメカニズムを冷徹に見通し、目的主義に徹すればプロの仕事ができるという見本です。


 おっと言い遅れました。肝心の自傷行為はとっくに止め、本人もある日それに突然気づいてハッとしたそうです。




※例によってプライバシー保護の為、内容の一部を本質が変わらないように変更しています。




~美し国ぞ大和の国は~

  我那覇





 ハーブアロマの楽しみがなかなか日本では定着しません。

 

 何度も流行はやってきましたが、そのたびにいつの間にか立ち消えるが如く毎回しぼんでゆくのです。きっと個人的には好きだという方も多いに違いないのです。

 今個人的と言いましたが、この言葉の中に、なぜ定着しないのかということの理解をするためのカギが潜んでいると思います。


 ハーブアロマは、それぞれに個性豊かな香りを持つことでしょう。

 そして、それ故に日本では最終的には受け入れられないのです。


 和を重んじる日本社会、更に言えば、日本文明は明らかに個性に対し親しみを持ちません。むしろ和を乱す要素として、排除しようとする社会的運動生理が働きます。


 日本人の魂に和というものが実に重きをなすという論者は数多くいるのですが、ここでは更に奥に進んでみましょう。


 例えば、なぜ和がそこまで重要なのか。


 その答えに、「日本は和を重んじる文化社会」という言い方では、表面的すぎます。私は、偏差値教育システムにおける劣等生であったので、答えをワシづかみに得ようなどという愚かなマネましません。

 なぜならそんな方法では、失敗が約束されるようなものだからです。

 そうではないのです。


 目に見えない、形に表せない世界(例えば、意識)では本当の答えは別の姿をしているのが普通です。

 

 日本が和の社会であるということの本当の意味、それは日本人の魂が相対世界に存在するということです。相手がいて初めて自分はいる、という感覚。

 どうです?今までにあまり聞かないお話でしょう。


 結局、ハーブアロマは日本ではあまり定着しないのです。それよりもこの反対が西洋人の魂であると合点をつければ彼らの文物日常行動原理がよく分かるようになると思います。


(まとまり不足でした、悪しからず。)


では、また。



~美し国ぞ大和の国は~

  我那覇