このブログで最もよく読まれている記事は「賞金付ゲーム大会と賭博罪」のようだ。この分野に関心を持っている人は多いのだろう。
私は賞金付ゲームアプリの顧問をつとめているが,賞金付ゲームを事業としてする場合,問題になる法律は実は賭博罪だけではない。
「景品表示法」というあまり耳慣れない法律との関係も問題となる。
同法第2条3項は「顧客を誘引するための手段として」「事業者が自己の供給する賞品又は役務の取引に付随して」「相手方に提供する経済上の利益」を「景品類」であるとして,これの金額は同法第3条を受けた公正取引委員会の告示で規制される。
以上のもと,賞金付ゲームは,賞金額が高額になる場合,賭博罪はもちろん景品表示法との関係でも合法性を確保する必要が出てくる。
景品表示法という法律は,専門家として勉強すればするほど「いやそれ明確性の原則に反してるだろ」と突っ込みたくなることばかりだ。
たとえば,上記「景品類」に該当するかどうかは当該経済的利益が取引に「付随」しているがどうかによって判断されるのであるが,この「付随」という表現はあいまい極まりない。
専門書をひもといても「付随」するかどうかは「当該取引や利益提供の形態から個別具体的に判断される」などと記載されてる。
私が消費者庁に直談判しに行ったときも担当者は同趣旨のことを言ってきた。
もちろん,判断のファクターはある程度類型化されており,それは専門的知識ある弁護士ならおおむねあたりをつけられるのであるが,問題は,こんなあいまいな法律は一般人にはよく分からず,ただただ萎縮的効果を及ぼすだけである,という点だ。
この国には,善良な市民を守るという美名のもと国家が濫用しやすい法律が数多くあり,景品表示法もそのひとつだ。
景品表示法は,もともとは高度経済成長期に,チューインガムで1000万円が当たる等の過度の懸賞が問題になったり,牛肉の缶詰メーカーのほとんどが牛肉100%でなかったことが判明したりして,規制すべきとの世論に応えてつくられた法律だ。
法律の趣旨は「一般消費者の自主的かつ合理的な選択を確保」とされている。
しかし,ここに違和感を覚えるのは私だけであろうか。
ここでは,国民が「自主的かつ合理的な選択をしているかどうか」を国家が判断するとされているのだ。
日本は民主主義の国である。
民主主義の根底には,「選択による自己責任」の理念がある。
政治のあり方は国民自身が選択する。選択の結果がどうなろうとも国民自らが責任を持つ。だからこそ,その選択については何らの権力的な介入は受けない。
これが民主主義の基本理念だ。
日本はこのあたりの認識が,まだまだ非常に弱い。
国家権力が「国民の自主的かつ合理的な選択」を確保するという理屈は,民主主義の理念と相対する。ここに違和感を覚えないうちは,日本の民主主義はいまだ中途半端だということだ。
国民は,自らの選択とその結果について責任を持つと表明するからこそ,国家に自由を主張できるのだ。
逆に言うと,その表明が不十分である限り,国家は国民の自由をどんどん規制してくる。国民は権力の濫用を甘んじて受けることになる。
自らの選択に自ら責任を持つか,権力の濫用に甘んじるか,この2択で前者を採るというのが民主主義の根幹である。
ゲームとギャンブルは,語源も同じで実質も共通する部分が多い。
そこでは「選択による自己責任」が如実にあらわれる。
麻雀打ちならよく理解できるだろう。
日本よりもひと足早く民主主義が浸透した欧米において,ゲームやギャンブルへの規制が日本よりも緩いことは無関係ではない。
それだけ「選択による自己責任」の理屈が認識されているのだ。
賭博罪,風営法,景品表示法。
ゲームを規制するこれらの法律は過度広範だと私は考えている。規制緩和は必須であると。
こんな話をすると,アンタがゲーム好きなだけでしょ,なんて言ってくる人もいる。
いやもちろん,私がゲーム,というか麻雀が大好きであることも多少は関係していると思うが・・・新年一発目のブログということで,ここは大風呂敷を広げさせてもらう。
賭博罪,風営法,景品表示法などゲーム関連法の規制緩和。
それは,選択による自己責任の理屈を浸透させ,ひいては日本の民主主義を一段上のステージに持っていくことにつながると私は考えている。