古代のギリシアと中国の古典というのは、人類全体にとっての共有の「知」だと思うんです。
これは「西洋人」に限らず、誰であっても基本的にこの知識を持たずに政治や歴史などについて語ることは出来ないはず。

地中海の中央に浮かぶシチリア島は、これ以降も、交通の要衝であり、数々の戦争の舞台となります。
シチリア島といえば「マフィア」の故郷としても有名ですが、このマフィアという言葉の語源には支配者としてやって来たアラブ人たちの言葉だという説もありますし、支配者としてやって来たフランス人に対する「Morte alla Francia Italia anela!」という言葉の頭文字を取ったという伝説もありますよね。
こうした複雑な政治状況がマフィアの存在を生み出したわけです。


一番、最近のシチリア島上陸作戦といえば、



1943年7月10日に始まる連合軍による「ハスキー作戦」ですね。
第二次世界大戦で枢軸国の一角を為すイタリアに対して連合国は侵攻作戦を決定。
米軍はパットン将軍、英軍はモントゴメリー将軍が指揮を執り、対する防衛側はケッセルリンク元帥がイタリア防衛の指揮を執り、ゲーリング直々に結成し、その名を冠する第1降下装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」がシチリア島に立て籠もります。
ギリシア古典の世界での決戦であり、特に「自由と民主主義の国アメリカ」にとっては「自由と民主主義の国アテナイ」の失敗は絶対に繰り返せない戦いと意識されたのではないでしょうか。

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)/トゥーキュディデース

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“アテーナイ側軍勢は、すでに本国勢と同盟諸国勢をあわせて全参加軍がケルキューラに集結していた。そして先ず三人の指揮官は、あらためて全軍勢の点検をおこない、全軍がこれから先々の地で投錨し宿営をととのえる際に従うべき順列を決めた。
~(中略)~
これらの手筈をととのえてから、アテーナイ勢はケルキューラから錨をあげて、シケリアを目ざして海を渡りはじめた。
これに従っていた諸軍は次の構成をもっていた。
三重櫓船の総数百三十四艘(その内訳は、アッティカからは快速船六十艘と軍兵輸送船四十艘、あわせて百艘、残りはキオス島をはじめとする同盟諸国からの混成船団)、これに加えてロドスからの五十丁櫓船二艘、重装兵の総数五千百名(内訳は、アテーナイ市民兵役簿からえらばれた一千五百、軍船搭乗の第四階級重装兵七百、残余は従軍の同盟諸国から成っていたが、年賦金納入国からの諸兵に加えてアルゴス兵五百、マンティネアやその他の傭兵二百五十も含まれていた)、弓兵の総数四百八十(その中の八十名は、クレータ島からの兵士であった)、ロドスからの弩弓兵七百、さらに、軽装兵としてはメガラからの亡命者が百二十名参加した。また、馬匹運搬船一艘が騎馬兵三十騎を積んで従っていた。”



紀元前415年夏、ケルキュラ(コルフ島)からイオニア海を渡り、イタリア半島南岸を航行してきたアテーナイの遠征軍はシチリア島に到着しました。
シケリア島民に対してアテナイ軍はその威容を見せつけるように周辺海域を威嚇して航行します。
ところが、ようやくシケリアに到着したアテナイの遠征軍に本国から急使が届きました。アルキビアデスに裁判所への出頭命令が届いたのです。
すでに書いたように、遠征軍が出発した後、アテナイ本国では政争の嵐が吹き荒れ、陰謀論やデマによって告発された者たちが次々と投獄され、処刑されていました。その嵐がシケリア上陸直前のアルキビアデスに届いたのです。
アルキビアデスは、本国へと送還されるために護送船に乗せられ遠征軍から離脱します。

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“アルキビアデースがシケリアーから船で去つてからは、ニーキアースが全権を握つた。
ラマコスは有望な正しい人で戦闘の際身を惜まずに武力を発揮したが、非常に貧乏でけちけちしてゐたために遠征の度毎に自分の着物や履物に使つた僅かの金を計算してアテーナイの人々に払はせた。
そこでニーキアースは他の点ばかりでなく富と名声によつて大きな威望を持つてゐた。
~(中略)~
そこでこの時も将軍としては手腕では上のラマコスを下に従へて、軍隊を常に警戒と躊躇を以て使ひ、先づ敵からずつと離れてシケリアーを一周したために敵に元気を与へ”

ようやくアルキビアデスを軍隊から追っ払うことにニキアスは成功し、遠征軍の全権を掌握しますが、残念ながら、政治家や外交官としての才能はあってもニキアスには軍人としての才能はあまりなかったのです。
安全策を採って威力偵察を繰り返しているうちに時間は過ぎ、シケリア勢力は、最初のアテナイ軍到来のショックから覚め、ヘルモクラテスを司令官として防衛態勢を整えてしまいます。

“これはすべての人がニーキアースに責めた点で、相談したり躊躇したり警戒したりするうちに行動の機会を逸してしまつたといふのである。
行動そのものについては誰一人この人を非難するものがいなかつた。一旦乗出せば活発で有効であつたが、乗出すまでに躊躇して思ひ切りが悪かつたのである。”

政治家としての才能と軍人としての才能は違うものなんですよね。軍人が政治家になってもろくなことにならないのと同じように。
しかし、政治家には政治家なりの軍事戦略があり、

“シケリアーの人々を驚かせギリシャの人々にも信じられない事と考へられたのは、大きさから云つてもアテーナイに劣らないスュラークーサイの町を僅かの時間に壁で取り囲み、地勢が不規則で海が迫り沼地が傍にある仕事のし難い土地にぐるりと壁を造つたことである。”

シュラクサイの都市をただ兵士で包囲するだけでなく、都市全体を包む防壁を建設してしまったのです。その上で、シケリアの各都市を政治的に切り崩し、シュラクサイの内部にも政治工作の手を延ばします。
ただ、その途中、もともと腎臓に問題を抱えていたニキアスは病に倒れました。

“さてニーキアースは、大部分の行動に於て体に無理をした。
しかし或る時その病勢が極度に達し、ニーキアースは障壁の中で少数の従卒に守られて横たはり、ラマコスが軍隊を率ゐて、アテーナイ軍の障壁に向つてその攻撃を中途で妨げるために城壁の中から出て来たスュラークーサイの人々と戦つてゐた。
アテーナイの兵士が敵を追跡するために隊伍を乱して進んだので、孤立したラマコスは自分に掛かつて来るスュラークーサイの騎兵隊に立向かつた。その騎兵隊の先頭には勇猛果敢なカㇽリクラーテスがゐた。
ラマコスはその挑戦を受けてこれと一騎打になり、先つその太刀を受けたが、こつちからも打返してカㇽリクラーテスと一緒に倒れ、共に命を失つた。”

アテナイを出発する時に三人いた指揮官は、アルキビアデスが本国帰還命令を受けて離脱した後、政治工作をニキアスが担当し、軍事をラマコスが担当する形で遠征軍を指揮してきましたが、ここでラマコスが戦死してしまい、ついに指揮官は病に臥しているニキアス一人になります。
ただ、

“かういふ事が起つた結果、将軍としてはニーキアース一人が後に残つたが、希望は大きかつた。
と云ふのは、方々の町が自分の側に附くやうになつて、糧食を一ぱい積んだ船が到る処から陣営に到着し、形勢が好転し始めたので、すべての人が従つて来た。
そのうちにスュラークーサイの人々から、自分たちの町に絶望してニーキアースと講和についての提議が行はれた。”

ようやくニキアスの政治工作が実り始めたのですね。
さらにアテナイ本国からは、新たな指揮官としてデモステネスが増援部隊を率いてやって来ることになっていました。
ニキアスは、これで、攻城戦を敢行することなく、外交協定によってシュラクサイを降伏させ、無事にアテナイ兵たちを本国に連れ帰ることが出来ると喜んだのです。


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リンクしてあるのは、Velvet Revolverの「The Last Fight」。