このブログで擬人化を紹介した最初の話を覚えていますか?
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のトレース画の話です。大天使ミカエルに率いられて、中国人と日本人を成敗しに行こうとするヨーロッパのメイデンともヴァルキリーとも呼ばれる擬人化乙女たちの絵でしたが、ここまでに彼女たちの全員を既に紹介してきたはずです。誰が誰だか分かりましたか?

ドイツが統一されて近代国家としての体裁を整えたのは1871年のことですから、日本の明治維新が1868年、イタリア統一が1870年と遅れてきた帝国主義国家としては三国の中でも一番遅くに統一したわけです。

ドイツ統一を主導したのは鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクです。

メモ垣露文

よく流布しているビスマルクのポートレートは、こうした鉄兜に軍服姿で、ニックネームの鉄血宰相と相まってゴリゴリの軍人出身かのような印象を受けますが、実際には法律畑出身で、彼が抜擢されたのもパリ駐在の外交官時代のことです。
余談にはなりますが、学生時代にEUの欧州議会についての講義を受けていた時に、これを統一以前のドイツの議会制度と比較したらどうなんだろうとは考えたことがあります。EUは知っていても、なかなか日本で欧州議会の構成や事情が伝えられることが少なくて、それ以降は興味を失ってはいるのですが。

日本で明治維新の頃に、何故、有名人(英雄かどうかは評価があるでしょうから、こんな表現にしておきます)が大勢輩出されたのか、なんてのが卑俗で低俗な論壇雑誌なんかに掲載されているのを目にします。
簡単な話ですよね。必要とされたからに決まっています。国の安定している時期には必要無い人間でも混乱期には必要になるのだから。ゲリラ戦やオルグに長けた人間なんて平和な時代には厄介者でしかないでしょう。

ヴィスマルクの直属の上司はヴィルヘルム1世、直属の部下は大モルトケとして知られるヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ。どちらもビスマルクとは仲が良くないながらも互いに才能をフルに活用していったことがプロイセンによる統一が成された理由になります。
ドイツ統一の最大の見せ場がナポレオン3世による宣戦布告でした。
これも、ここまでブログで何度も触れているようにフランス軍は総崩れして、パリは包囲され、よりにもよってヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言されるのです。

メモ垣露文

ビスマルクの政策は、鉄血とはいうものの徹頭徹尾、外交によって為されたと考えます。無闇にドイツの拡大を急ぐよりは、周辺国が警戒してドイツへの敵対関係を取らないよう。もし取るならば、逆に相手国を外交的に追い詰めてドイツに大義名分を残したままで暴走させるように動いています。
このあたりは北欧諸国の記事とフランス関係の記事で、相手国の視点からどうして動けなかったのかを書いてきたつもりです。

統一ドイツの皇帝位に就いたヴィルヘルム1世が亡くなるのは1888年3月、後を継いだフリードリヒ3世がその3ヵ月後に亡くなると、ヴィルヘルム2世の時代がやってくるのです。

メモ垣露文

この写真は1863年、4歳のヴィルヘルム2世が父親のフリードリヒ3世と並んで撮った一枚の写真。出生時の医療ミスで病弱だった少年が最後のドイツ皇帝に、後になるのです。



「Preußens Gloria(プロイセンの栄光)」はフランスとの戦争に勝利したことを記念して作曲されたと言われています。20世紀に入ってから発見されてドイツを代表する行進曲になりました。