こんな手抜きなブログでも、一応、資料は読みながらやっているのです。
お盆休みに入って、ちょっとまとまった時間をとりながら書くのはできそうにないので、思い出話でもしつつ続けていきます。

ある国で、ナショナル・チームがサッカーの国際試合で勝利した夜のこと。
首都のとある場所に続々と若い連中が集まってきているという噂を聞き、いそいそと出かけました。
群集心理というものに興味があったので、こうした情報には真夜中のスラムであろうと、その頃は見物しに行っていたものでして、気勢をあげる群集をニヤニヤしながら眺めていました。
予想通り、群集はモッシュを始め、街の一角を駆け出して行きます。同じように予想して配置されていたライオット・ポリスが包囲を開始してジリジリと輪を狭めていくと、私の心は “キタ―(゚∀゚≡゚Д゚)ムハァ―!!” こんな感じ。
警官隊の姿を見ると、群衆は熱くなり始め、密集隊形に集結して睨み合いになりました。どこからかペットボトルが投げられ開いた口から水がほとばしりながら夜空を回転していくと、鏑矢とはこうして使うのだろうな、と感慨に浸ってしまいます。尻を出しながら挑発する若い連中が出始めると、ペットボトルからビール瓶、投石へと移りガッガッガッガと盾に当たって響く音に、ローマ軍団兵とガリア人を眺める気分。
その時は、そのまま警官隊が後退して行ったので衝突まではいかず、興奮が冷めた群集も三々五々解散していきました。

帰り道に、ある小さな集団に会いました。ひとりのおっさんに引率された10歳前後の子ども達。
「いやぁ、大したことなかったな」なんて話しながら歩いていると、子どもの一人が私のサイフに手を伸ばします。反射的に腕を捻りあげて、おっさんに、これは何?と首をかしげながら表情を作ってみせると、おっさんは笑いながら、「済まん、練習のつもりだから大目に見てやってくれ」と悪びれもせず。
失敗した少年はべそをかきながら「親方に後で殴られる」とめそめそしています。
親方とそのまま話していると、彼が、その街で有名なスリ多発地帯を縄張りにしている、というので、「ああ、あそこのってこの子たちかぁ」なんて風に和やかに話している間も、次々と少年たちからの挑戦を受け、腕をピシリと叩くのに疲れ、飲みに行かないかという親方の誘いを断り、部屋へと戻りました。



とはいえ、うーむ、「オリバー・ツイスト」だ、と満足しつつも帰ったのですが、分かるのは、本当の下層階級って暴動には参加しないのですよ。それよりも暴動などで混乱している間にポケットからサイフを抜く方がよっぽど重要ですから。

メモ垣露文

ハイチと日本の震災後の救援物資に対する比較画像、といったタイトルをつけられてネット上で流れていたものです。でも、これを見ても民度がどうした、人種がどうした、だとかは言いたくないのです。
こうした差がどこから生まれるかは、社会における“信頼”とか“信用”に依存しているのですから。
列に並んでいれば食料や水を確実に貰えるという社会への信頼が秩序を生み、政府が供給を必ず確保すると信用しているから列を作れるのです。
公平な分配を停止してでも供給を急げ、という論には、こうした信頼と信用を捨て去るだけの覚悟を込めて発言されているのだろうかと疑問を持ちます。

英国の暴動を若者や移民の責任に帰するのはおかしい、と思うのは、一年前だって五年前だって彼ら彼女らは存在し続けていたのです。それが、何故、このタイミングなのかを無視するのは変ですよね。
移民系の男性が警官に撃たれた、というのならばブレア時代にブラジル系の若者が警官に射殺された事件の方がよっぽど悪辣な話です。
保守党のキャメロン首相、ニューズ・コーポレーションのマードックの失敗などの政府の信用度の低下がタイミングを招いているとは考えられませんか。マードックの話だって労働党政権下でも同じように活動していたのに、労働党時代には暴動にならず、保守党になって暴動になるのは何故だろう?

メモ垣露文

19世紀のプロテスタント系保守派によるデモの様子です。
左派が将来への希望をニンジンにして政権に挑戦するのに対し、‘質の悪い’右派は将来への不安をニンジンにして政権へと挑戦します。実際にどう運営されるかは別として、大衆を切り捨てることを前提に政権に就かれては政府への信用は置けなくなるのが普通です。

大衆は見捨てられたと感じると、自分の取り分を暴力的にでも確保しに行くものですよ。それが生存戦略になるのだから。