こんにちは、りこみです。

 

今月初めの京都さんぽでは

寄り道してみたお寺がありました。

 

地図を事前に見ても、こんな賑やかな

ところにお寺あったっけ?

というような小さなお寺です。

 

 

そこの角を右に曲がると三条大橋

という賑やかな立地に

ひっそりと建っていました。

 

京都市内ではビルに挟まれてひっそりと

佇む寺社は珍しくないし

今までの私なら

きっと素通りしていたでしょう。

7月に国立博物館での秀次の展示を見て

ここに彼の菩提寺があることを

初めて知り訪れてみたくなったのです。

 

 

すぐそばの街の喧騒とは相反して

ほとんど訪れる人がいないような

静かな境内です。

 

東屋みたいな休憩所に、秀次事件に

関する新聞記事などの資料などが

いろいろ展示されていて

ついじっくりと読んでしまいました。

 

秀吉に切腹させられた説。

または秀次は自ら死を選んだ説。

また秀次自身、悪名高い暴君だった説。

逆に彼は領民にはとても慕われていて

名君だった説。

真逆の諸説があり、今となっては

確認のしようもないままですが。

 

 

それでも私は、晩年の狂気の沙汰の秀吉に

運命を変えられたように思えてならず

秀次に同情してしまいます。

 

秀次の供養の塔のまわりには

この地で公開処刑された

妻子や家来たちの49柱の五輪塔が

建っていてそれが妙にもの悲しい。

 

 

この五輪塔の一つ一つ。

当時、殺される理由なんてなくても

主人の道連れに処刑される運命を

受け入れなくてはいけなかった

妻や側室たちの悲しみが

渦巻いている気がしてしまいます。

 

妻や側室はまだ10代20代の若い女性が

ほとんどだったようです。

今、青春を謳歌している

うちの娘と同世代だもんなぁ…と思うと

時代の隔たりを感じずにはいられません。

(今年は秀次の430回忌だそうです)

 

 

日本史にひどく疎かった私ですが

少しづつ興味のわく時代から掘っていくと

今まで知らなかった世界が

じわじわと広がっていくよう。

この京都という地では

教科書の活字だけではない生々しい歴史の

痕跡が残っていて、ここを歩けるうちに

たくさんのことを吸収したいなと思う。

 

 

先ほどの瑞泉寺がある木屋町通りには

並行して高瀬川が流れています。

 

が、かつては鴨川はもっと幅広くて

この辺りは鴨川の中州だったなんて!

先ほどの秀次一族が斬首されて埋められた

塚もここにあったそう。

その塚があった場所にのちのち瑞泉寺が

建てられたということです。

 

 

その寺を建立したのが角倉了以。

(すみのくらりょうい)

この方の名前は京都に来るようになり

ちょくちょく耳にするようになったので

きっと京都では有名な方なんでしょう。

(教科書にも実は載っていたりするのかな)

 

豪商で、大堰川やこの高瀬川を開削

したとして名前が残されています。

私費を投じて運河を造った人。

高瀬川開削中に荒れ果てていた秀次の塚跡を

発見して、それを憐れんだ彼が

瑞泉寺を建てたとか。

ずいぶん男気のある人だったんだなと

感じます。

 

京都では一つを知ると

その背景には糸が絡まるように

いろんな側面が隠れていて

それを少しづつほどいて知りたい意欲に

かられています。