二代目社長は創業者と比較されることが多いと思います。


しかも、大抵は、先代と比べてカリスマ性がないとか頼りないといったマイナスな評価が付きまといます。


でも、二代目社長は創業者のようにならなくて良いし、むしろ、なるべきではないと僕は思います。


創業者の姿勢は攻めであるのに対し、二代目社長は守成で役割が違うからです。


創業者のように派手でエネルギッシュでワンマンなタイプではなく、反対に、地味で温和で慎重、周りの人に素直に協力を求められるタイプの方が守成に向いていると思います。


戦国武将の二代目で失敗した人と成功した人がいます。


失敗したのは武田勝頼で、成功したのは徳川秀忠です。


武田勝頼は武田信玄の後継者です。



勝頼は猛将で、信玄が死んだ後に跡を継ぎ、一時は、信玄の時代よりも勢力を拡大しました。


しかし、長篠の戦いで織田信長に敗れてしまい、勝頼が跡を継いでから武田家は10年経たずに滅んでしまいました。


長篠の戦いは、織田軍の方が数も多く、信玄時代からの家臣は退却を進言したと言われています。


しかし、勝頼は勝つ自信があったのでしょうか、勝ち続ける強い大将であることで家臣を掌握しようとしたのか、退却せずに大敗し、武田二十四将と呼ばれる家臣達の多くが討ち死にしてしまいました。


現代の会社で言えば、先代からの社員達が二代目社長のやり方に付いて行けず、大量離職するのと同じでしょうか。


一方の徳川秀忠は、徳川家康の後継者で江戸幕府の二代将軍です。



父親の家康と息子の家光(三代将軍)は有名なのに、秀忠を知る人は多くありません。


秀忠は武田勝頼とは対照的で、 武将としては悲しいくらい弱くてまったく評価されていません。


関ヶ原の戦いにも、老獪な真田にあしらわれて遅刻し、家康にこっぴどく叱られています。


そんな情けない秀忠よりも、武将として優秀な弟の松平忠吉を後継者に推す家臣もいました。


それでも家康は、戦国時代が終わった後の世の中は武闘派の忠吉よりも秀忠の方が適任であると彼を後継者にします。


秀忠は、家康が健在である内に将軍を譲られ、家康の後見を受けました。


そして、三代将軍の家光がバトンを引き継いだのですが、その時に家光が「余は生まれながらにして将軍である。文句がある者は国に帰って戦の支度をせい」と大名達の前で言ったというのは有名なエピソードです。


ですが、若い家光がそこまで大名達に強気に出られたのは、実は秀忠の功績があったからでした。


秀忠の功績とは、大名家の取り潰しです。福島家や蒲生家などの外様だけでなく、親藩や譜代でも幕府に反抗的な大名家は潰しました。


秀忠が大名家を潰しまくったお陰で、家光時代に幕藩体制が確立したのです。


秀忠のように、地味で目立たない存在ではあるものの、創業者が築いたものを守り、足場を固めて次の後継者に花を持たせる、これこそが優秀な二代目社長のあるべき姿なのではないかと僕は思います。