このシリーズでは、「韓非子 ビギナーズ・クラシック 中国の古典」(角川ソフィア文庫)をもとにして、韓非子の内容からフレーズを抜粋して注釈をつけていきたいと思います。
基本スタンスは、聖賢におもねらず、のスタンスで、迎合、鵜呑みにせず、自分なりの解釈に努めていきます。
6)人間は楽して豊かになりたいものだ
そもそも臣下と君主との利益は互いに異なっている。異なっている。
臣下の利益は自分に功績がないのに富貴になることに在る。
さらに君主の利益は、傑出した人物が君主のためにその才能を駆使することに在る。ところが、臣下の利益は、私的な党派が私的な利益をはかることに在る。
引き続き、国家の重臣たる人々がいかに君主にとってためにならない存在であるか、ということを、君主の利益と臣下の利益の違いから説いています。
ここも、臣下は従来からの国家システムで動いてきた人たちであり、法術の士たる韓非子は、いわばそれらの既得権益をぶっ壊す新勢力、ということになります。そのため、どうしてもこのような既得権益に対しての批判が多くなっています。
ただ、ここで注目したいフレーズ、「臣下の利益は自分に功績がないのに富貴になることに在る」というのは組織の人間の本音をついているように見えます。
日本では、長らく終身雇用の年功序列、という仕組みが組織の基本形態であったわけですが、2019年の今は、そのような雇用形態はもういい加減ダメでしょう、というのは当然の風になっていますが。ただ、では、組織がどんどん、才能や功績によって登用されるものになっていっているかといえば、まだまだまだ、というところです。
力のある人、能力や実績のある人が、長くいるいない関わらず重用されることにNOと言える理屈はもうなくて、流石に「長くいたこと自体が評価されるべきだ」というのは無理筋です。しかし、他方で、人間の深層心理として、本音として、「本当は楽して偉くなりたい、豊かになりたい」という気持ちがあること、その心が、この「年功序列」という考え方を根本で支持しているように思います。
つまり、いってしまえば、成果なんか出すのは大変で、しんどいから、組織に居続けることで給料上がるならばそれが一番いい、ということで、この年功序列というのは、人間心理をよく活用した効果的な制度、といえなくもありません。
しかし、いうまでもなく、そのような制度がはびこれば、全体がぐんぐんと伸びているような時期はよくとも、ゼロ成長に近いような現代では、工夫とイノベーションがなければ成長しないわけで、このような人間が高級で居座られては、組織の活力が失われてしまうのは論を待ちません。
他方で、このように2000年以上前からこのような人間の本音というのは変わっていないわけで、特にこの長幼の序に基づいた仕組みは、儒教の影響が濃く反映されていると感じられ、日本において抜本的にこのような仕組みを打破するには、儒教の影響を教育から排除するか、そのような思想を持たない海外の経営者により旧弊を打破してもらうか、ということになるかと思います。
しかし、では、このような儒教的な思想の色濃い経営や組織運営というのは、一様に唾棄すべきものなのか、というのは決してそうとだけはいえないように思います。組織を強くする上で、組織に対する忠誠心、ロイヤリティというのは当然に重要なことで、時に死力を尽くしてでも頑張る、そういう力というのは、個人の目的目標に対しても当然生まれますが、それよりも、組織や集団の中で、組織的に集団的に発生させるほうが容易です。
日本が、集団的な統制が効きやすいというのは、組織戦になった際の強さ、ということにもつながっているように見えます。
経営者や組織のTOPはこのような2面性を理解しながら、どちらかに振れすぎることなく、独自の組織運営をしていくことが求められるのでしょう。
7)生殺与奪の権利のない管理職
術による統治というのは、臣下の能力に応じて官職を授け、臣下が前もって立てた名目(目標)に従って臣下の実績を追求し、生殺与奪の権柄(権力)を握って臣下たちの能力をためすというものである。
法令が役所の公文書に明記されてあり、刑罰がどのようなものかは必ず民衆の心の中で理解されている。そして褒賞は慎んで法を守る人物に与えられ、刑罰は命令に違反した人物の身に加えられるというものである。法とは臣下が手本とするべきものである。
ここでは、統治者にとって最も重要な権利は、生殺与奪の権利、つまり、恩賞や官職を与える権利であり、罰する権利である、と言っております。この辺りの非情だけれども現実的な話で、あれこれ統治のための理屈(義だとか仁だとか、その手の儒教的なものに対して)があるけれど、言って一番大事なのは、部下にとって最も現実的な欲求部分を抑えるべきだ、ということです。
部下、いわゆる普通の人間の欲求は金と栄達であり、一番恐れているものは、死罪を頂点とした罰を与えられることである、というところですね。そういう根っこ部分を抑えることが、最も重要だ、ということです。
こうしてみると、今の世の中で、中間管理職的な役職にある方のほとんどが、実はこの権利を与えられていません。ある課長が自分の課に20人のメンバーがいたとして、例えば昇進や昇給については、ファーストステップとしての現場のマネージャーとしての評価はするでしょうが、自分がその人の昇進を決定できる権利を持つ人はほとんどいません。それは、最終的には執行役や、場合によっては社長クラスの上役であることがほとんどです。
そうすると、評価される側からすれば、課長の存在というのは、単なる緩衝材、でしかなくなります。もちろん一次評価者としての立ち位置はありますが、この人にどう思われようと、自分の昇進とかの最終結論は出せないと思うのならば、課長へのリスペクトはロイヤリティは薄くなります。
一方で、罰を与える、という権利において、降格やクビ、みたいなことまでの権利は現場のTOPにありませんが、それでもこれらのチームのTOPは、メンバーを叱責したり、追及したり、時に罵倒したり精神的に追い詰めたりする、この権利については実質的に認められている状態であることが多いです。ですから、課長は、昇進昇格への力もないけれど、自分を叱る、怒る、詰める権利はある、ということです。
そういう状態は、部下とマネージャーの関係において、あまり適切な関係とは言えません。自分のことを詰めて、怒って、叱ることはできるけど、評価することが出来ない、そんな人に対して、本気でついていこう、というのはなかなか難しい話です。
チームマネジメントを考える際には、このような生殺与奪の権利をどこまでバランスよく配布するか、という視点が大事になってくるかと思います。

