東一番丁ブラザー軒
七夕の夜
キラキラ波打つ
ガラス暖簾の向うの闇に
この曲を聴くたび、
昭和20年7月10日にあったという仙台空襲を想う。
当時、見習士官として仙台にいた俳優の久米明さんは、
以前NHKで放映された番組でこんな証言を残している。
七月一〇日の夜、たたき起こされまして、「仙台が空襲である」。外へ出てみますと、仙台方面が真っ赤に燃えてるんです。素晴らしいと言うか、何て言うか、火の光景なんてのは初めて見たのでびっくりしてしまったんです。周りの軍人たち、私についてきた下士官などは、すぐ原隊のある「青葉城」に戻ってどうなるか見てみるというわけで、それこそ裏山伝いにずうっと行く。私は体力がありませんから、真夜中にそんな山の中をかけて原隊に戻るという勇気がなくて、俺は明日の朝行くと言って、一晩そこの隊(註;仙台郊外の長町の第四連隊のこと)に止まり、翌朝仙台に向かったわけです。東北本線をずうっと歩いていきました。四キロぐらいでしょうか。
仙台の駅へ着いてみると、駅は丸焼けなんです。仙台の駅から青葉城までははるか向こうで、ずいぶん遠くにあると思ってたんですけれども、その真ん中の町が全部焼けてしまったので駅に立ったらばすぐ目の前に青葉城があるんですよ。で、青葉城は残ったんだと思って、その大通りをずうーっとそこまで歩いていきました。
地下防空壕が道のわきわきにあるんですけれども、見ると、母親なんでしょうかね。子どもを抱いたままの、焼けたままの死体がある。その辺に大きな馬がそのまま転がって丸焼けになっている。そういうような町の状況を見ながら青葉城に着きましたらば、緑の山はあるけれども、「師団司令部」、それから「予備士官学校」「歩兵連隊」「砲兵連隊」、各兵舎全部ピンポイントで焼けてるんです。
それで、あっ、この辺が俺がいた第二中隊だなと思っていくと、僕はお袋が大事にしてたハサミを持ってたんですが、そのハサミがちょうど目の前に出てきましてね。もし長町の第四連隊に出張していなければ、僕はここで死んでたんだと。事実そこの本部の防空壕で、何人かの残っていた下士官の人は戦死しましたしね。(『戦後60年企画 あの日 昭和20年の記憶 下』より)
- あの日 昭和20年の記憶〈下〉―終戦60年企画/日本放送出版協会

- ¥2,808
- Amazon.co.jp
戦後70年。
届かぬ願いかもしれないが、
たがいに殺したり殺されたりというような世の中が、
早くなくなればと、願う。