軍郷、四街道
千葉公園の陸軍戦跡を訪ねた後、総武線で千葉駅から四街道駅に移動。
千葉市のホームページによりますと。
かって四街道駅周辺は見渡す限り原野の地であったそうで、江戸時代末、幕末に佐倉藩西洋式砲術演習の地として開拓されました。明治時代初期に当地を訪れた明治天皇により「下志津原」(しもしづはら)と命名されたと伝わっています。
 

その後、数々の陸軍施設と陸軍物資供給目的の四街道駅が開設され、陸軍施設を中心に陸軍御用商店街が形成されて「軍郷」として発展。かっては「関東一の大砲射撃場 "下志津” 四街道」として全国に知られていたそうです。
そういう歴史があって、四街道駅周辺には、日本陸軍砲兵関連の戦跡がありますので訪ねてみました。
四街道駅の北口を出て、ぐる~っと円を回るようにして、津守通→学園通り→北年貢通→桜通りで四街道駅に戻るというルートです。徒歩1時間くらいで全部回れますね。

四街道町護国神社
まずは津守通り沿いの公園の奥にある四街道町護国神社へ。

 

津之森児童遊園の奥のほうにひっそりと建っている神社。

かっての日本陸軍野砲兵校にあった神社を遷してきたもの・・・かもしれない。かなり古そうです。

手前の鳥居は戦後に建てられたものだけれど、奥の鳥居に注目。

逆行でちょっと見えにくいかもしれませんが。

1938年(昭和13年)の建立で、
陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校
と2つの陸軍関連の学校の名前が刻まれています!
う~ん、歴史を感じる。

鳥居の横には慰霊碑が4つ並んでいるのですが。
柵があって中に入れないようになっています。

外から覗いてみると、日露戦争、支那事変以降の村の戦死者や戦没者の方の慰霊碑であるらしい。柵で囲っておかないと、いたずら書きとかされちゃうのかなあ?

陸軍野戦重砲兵第四連隊跡
次に学園通りに向かいます。四街道護国神社から歩いて5分くらいで愛国学園大学の大きな門が学園通り沿いに見えてきます。

この愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門だったもの。立派な門ですなあ・・・。


そして愛国学園大学の地はかって近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四連隊がいて、昭和14年に満洲に移転した後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となりました。


碑文によりますと。
陸軍野戦重砲兵第四連隊はノモンハン事変に参加した後、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されて、最新野重隊となり、ガダルカナルやびブーゲンビル島の戦いで奮闘。いやあ・・・一番苦しい戦地で戦ったのですなあ・・・。
連隊長をはじめ、千三百有余名の方が戦死されたのこと・・・。

日本陸軍の花形、野重
日本陸軍といえば歩兵・・・という印象がありますが。太平洋戦争は火力の戦いでもありましたから、日本陸軍も火砲に力を入れ、野戦重砲の開発、製造に注力しました。

日本陸軍の野戦重砲兵は、主に重砲を使用して敵に対して火力支援を行う部隊です。野戦重砲兵は「野重」(やじゅう)と飛ばれ(なんか、すごく強そうな呼び名だ・・・)、「日本陸軍の花形」とされ、もっとも頼りにされた火砲隊であったそうです。
敵に制空権を奪われた戦地では、野重により敵地や敵航空機を攻撃することが、最も効果があったそうです。コレヒドールやガダルカナルの戦いでも野重は活躍。陸軍歩兵達に頼りにされたそうですが。戦争後半になると、だんだん苦戦になってきます。


↑沖縄戦で使用された野戦重砲兵第1連隊の九六式十五糎榴弾砲。
(写真はWikiからお借りしています)

野重は重いですからお馬さんで運ぶのには無理がある。そこで牽引車という戦車のような車で運ばなければならないのです。

しかし牽引車を動かすためにはガソリンが必要。そして、野重を撃つためには火薬が必要。野重の砲弾を運ぶための車も必要。

陸軍は自動車連隊も持っていたけれど。車を製造するための資材、車を動かすための燃料が、太平洋戦争後半では圧倒的に不足してくる・・・。

第一野重を製造するための工場も、空爆や物資不足、労働者不足でなかなかフル回転しない。

せっかく野重を作っても、前線の戦地まで運ぶすべがない。弾薬を前線に届ける方法がない・・・ということで、戦争末期はかなり野戦重砲隊は苦闘したようです。
 

ニューギニア戦線やフィリピン戦線の日本陸軍の戦いを書いた本を読んでいると、野重を分解して工兵達が運んだり、野重があっても砲弾がなくて悔しがる砲兵達の様子が頻繁に出てきます。

将校集会所跡
愛国学園大学の道路を挟んだ斜め向かいに四街道公民館があります。
この土地は、かっての陸軍将校集会所。


 

当時の門が残っています!



陸軍野戦重砲兵第四連隊の裏門跡
次に学園通りから北年貢道へ抜ける途中の道、千葉敬愛高校の裏側のアパートの前に、かっての野戦重砲兵第四連隊ん裏門が1柱だけ残っています。


なぜこれ一本だけ残っているのだろうか??

とても立派な門柱なので、文化財指定とかして保存してもらえるといいのだけど。

ルボン山
北年貢道沿いに桜通りと交わる所にある市役所方面を目指して歩いて行くと、左側に小山があります。


大土手山、別名がルボン山。射的の築堤の山の跡で、砲兵射朶の石碑も残っています。
このルボン山、標高25.1メートル。階段がけっこう急。


 

頂上に登ると見晴らしいいです。

 

↑砲兵射垜の跡の碑
 

ルボンは、明治時代に招聘されたフランスのルボン砲兵大尉にちなんだもの。このルボン山で、射撃の練習をしていたのですね。

陸軍野戦砲兵学校
ルボン山の斜め向かい、道路反対側、四街道市役所の脇に、陸軍野戦砲兵学校があった名残の碑があります。

 


1922(大正11)年8月に陸軍野戦砲兵学校となり、射撃・戦術・観測通信術・馬術などを学生に教え、野戦砲兵や高射砲に関する研究や試験も行ったそうです。まさに日本陸軍の火砲の中核施設だったのですね。
周囲には観測隊之碑や生徒隊之碑もありました。



↑観測隊之碑


↑生徒隊之碑

そして・・・砲弾も!

 

10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾
 

15センチ榴弾砲砲弾
 

おお、これが、日本陸軍火砲最強といわれた、15糎榴弾砲砲弾というものか・・・。
初めて見たゾ・・・。

 

日本陸軍も火砲強化に頑張っていたと思うけど。
火砲を作るにもその材料と造り手が不足。
火砲を運ぶための車も不足。
車の燃料も不足。
・・・という状態では、いくら砲兵が頑張っても物資豊富、労働力豊富、工業生産力ナンバーワンのアメリカには、どうやっても勝てなかったですよねえ・・・。
精神力でどうこうって域を超えていました・・・。


そのことを、もっと早く、冷静に日本陸軍が、いえ、大本営が認識していれば、戦争で犠牲になる人達をもっと少なくできたのではないだろうか。
いえ、そもそも、戦争を始めることを思いとどまることはできなかったのだろうか。
そんなことを思いながら、陸軍野戦砲兵学校の跡を見ていました。
 

 

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