春風駘蕩
村田重治少佐(むらた しげはる)。
海軍兵学校卒58期。長崎県出身。戦死後、二階級特進で大佐。享年33歳。

(↑写真はWikiからお借りしています)
豊田穣氏によれば村田少佐のあだ名は「ブーツ」。いつも飛行ブーツを履いていたからとか。
山本悌一郎氏によれば村田少佐のあだ名は「ぶつ」。仏をさすということ。春風駘蕩とした仏様のような風采だったからとか。
どちらが本当かわかりませんが。あるいはどちらも本当かもしれません。
豊田氏も山本氏も共通して書いているのが、村田少佐は闘志を胸に秘めながらも、微笑みを絶やさず周りを明るくしたということ。部下達に慕われ、常に雷撃隊の先頭を飛んだこと。
村田少佐は「上司からは信頼され、同僚からは愛され、部下からはこのうえなく慕われた」そうです。(山本悌一郎著『海軍魂 若き雷撃王村田重治の生涯』(光人社NF文庫))
周囲を明るく、優しく包み込む、春風のような方であったのだろうと推察します。
しかし、出撃となれば村田少佐の勇猛果敢ぶりは際立ち、日本海軍において雷撃隊の第一人者でした。
村田少佐がいなければ、真珠湾攻撃はなかったと言われているくらいですから。
真珠湾攻撃を可能にした雷撃の神様
1941年(昭和16年)1月、日本海軍連合艦隊山本五十六司令長官は、ハワイの真珠湾攻撃作戦を実行しようと幕僚達と検討し、大西瀧治郎少将(当時)に真珠湾にいるアメリカ艦隊を雷撃できるかどうかを相談します。
大西少将は第一航空戦隊幕僚であった源田実中佐に相談します。源田中佐は、まあ、いろいろ、評価が分かれる方だとは思いますが、航空に関しては天才的な参謀であったことは否定できないでしょう。
山本五十六長官としては「雷撃ができなければ真珠湾攻撃はやれない」と考えていました。
そこで水深が12メートルと浅い真珠湾で雷撃をできるか否か?が、真珠湾攻撃可否の重要なポイントになってきます。
村田さん(その頃はまだ大尉)は、当時まだ真珠湾攻撃作戦のことは知りませんが、横須賀海軍航空隊で雷撃のエキスパートとして、魚雷の浅海面発射の訓練に励んでいました。九七式艦上攻撃機を操縦して(村田さんは操縦員でした)、浅い海でも雷撃を成功させる研究をしていたのです。
8月になると、極秘で進められていた山本長官の真珠湾攻撃作戦に向けて、日本海軍の人事発令がされていきます。
村田さんは、雷撃の中核になりますので、南雲忠一司令官が乗る旗艦赤城の飛行隊長になります。
この時、赤城には、淵田美津雄少佐(真珠湾攻撃時は中佐)が第一飛行隊長(真珠湾攻撃隊を率いてもらうための特殊な人事だった)で攻撃全体の指揮官、坂谷茂大尉(真珠湾攻撃時は少佐)が第二飛行隊長で零戦隊を率いる、村田大尉(真珠湾攻撃時は少佐)が第三飛行隊長で艦上攻撃機の雷撃隊を率いる、という布陣になっていました。
この頃、村田さんには真珠湾攻撃作戦が極秘に伝えられたらしいです。村田さんの雷撃隊は鴻池基地に移動して、来る日も来る日も浅海面発射の猛練習をしていました。むろん、真珠湾攻撃を成功させるためです。
そして・・・昭和16年10月。極秘の作戦会議において、源田航空参謀は、村田さんに尋ねます。
「どうだ、できるか?」
村田さんは「なんとか、いきそうですなあ」と静かに答えます。
日本海軍が真珠湾攻撃を決定した瞬間でした。
真珠湾攻撃の一番槍は?
一方、真珠湾攻撃を奇襲できるか否かはわかりません。相手に日本海軍の動きを察知されてアメリカ艦隊が待ち構えている可能性もあります。奇襲か、強襲か。どちらの場合にも備えなければなりません。
そこで、源田航空参謀は方針をはっきりさせます。
- 真珠湾攻撃の奇襲が成功した場合、攻撃隊指揮官の淵田中佐機から信号弾を一発発射。村田少佐の雷撃隊が一番に攻撃を開始する。
- 奇襲が成功せず強襲となった場合、淵田機から二発の信号弾を発射。急降下爆撃隊が一番に攻撃を開始、その次に村田少佐の雷撃隊が攻撃。
実際には1、奇襲成功だったので、村田少佐の雷撃隊が真珠湾攻撃の一番槍・・・となるはずだったのですが・・・。
実は、違いました。
1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾攻撃を決行します。
アメリカ軍は日本の航空隊に気づいていません。奇襲成功です。
「ト・ト・ト」のト連送(全員突撃セヨ)。
淵田中佐の指揮官機から信号弾が一発発射されました。
その時、零戦隊のうち制空隊は上空で敵機を警戒していました。
零戦隊が動かないので、淵田中佐は見過ごしたのかと、もう一度信号弾を発射します。
これを見た急降下爆撃隊の指揮官である高橋赫一(かくいち)少佐は、信号が二発発射されたとみなし、すぐに急降下爆撃に入ります。九九式艦上爆撃機が250キロ陸用爆弾をヒッカム基地に落し、日本海軍の真珠湾攻撃の一番槍は、村田少佐の雷撃隊ではなく、高橋少佐の急降下爆撃隊のものとなってしまいました・・・。
いや、高橋少佐、もしかして、確信犯ですか??(^^;)
歴史に残る一番槍を高橋少佐の爆撃隊にさらわれてしまった村田少佐。
「高橋カクのやろう~~!!」
驚き、怒りまくりますが、後の祭り。
とにかく雷撃隊も急降下してアメリカの艦船に向けて魚雷を放ちます。
村田少佐機の放った魚雷は戦艦ウェストバージニアに命中しました。
「ワレ敵主力ヲ雷撃ス。効果甚大」
私達は歴史として日本海軍の真珠湾攻撃が成功したことを知っています。(アメリカの空母がいなくて沈められなかったという悔いはあれども・・・)
しかし、この真珠湾攻撃をきっかけに苦しい太平洋戦争が始まるわけですから、その後の歴史を知っている立場から見ると、真珠湾攻撃成功を諸手を挙げて喜ぶ・・・という気にはなれませんが。
昭和16年12月8日のあの日、零戦隊、雷撃隊、急降下爆撃隊は、真珠湾の空を飛び、命をかけて作戦を決行したのでした。
それが、日本を救うと信じて・・・。
(南太平洋海戦編に続く)
