日本画家が描いた戦争画
ツラギ夜襲戦。1943年。
三輪晃勢(みわ ちょうせい)という日本画家が描いた戦争記録画です。
1943年(昭和18年)の第2回大東亜戦争美術展に出品された絵画。
この絵画は、東京国立近代美術館の「記録をひらく 記憶をつむぐ展」で展示されていました。

ツラギ夜襲戦は、第一次ソロモン海戦とも呼ばれ、1942年(昭和17年)8月、日本海軍がアメリカ艦隊に勝利した海戦です。夜戦はやっぱり日本海軍は強いんだと、当時の海軍が鼻息を荒くした夜戦です。
ツラギというのは島の名前で、ソロモン諸島のあのガダルカナル島の向かい側にある小さな島です。


(↑地図はWikiからお借りしています)

太平洋戦争中の戦争記録画は、西洋画家が描くことが多かったので、日本画家が描くっていうのは結構珍しいのではないだろうか。
横山大観とか川端龍子のような日本画の大家も広い意味の「戦争画」を戦争中描いていますが。実際の戦争画というよりは、もう少し観念的、抽象的な絵が多かったのです。大観先生は、富士山ばっかり描いていたし。

三輪氏は京都生まれ。お父様も日本画家、同じく日本画家の堂本印象は義兄(堂本氏の妹さんと結婚した)、息子さんも日本画家。京都画壇の重鎮で、戦後も活躍されています。
京都画壇のスターであり、多くの賞を受け、戦前、戦中、戦後とずっとスポットライトの中を歩んだ画家といえるでしょうねえ。

その三輪氏が、なぜ『ツラギ夜襲戦』という戦争画を描いたのか。
太平洋戦争中、多くの画家にとって従軍して戦争記録画を描くことが使命みたいになっていましたし、戦争画を描くことは画家の義務のようにみなされていた時代だったので、三輪氏が戦争画を描いても奇妙というわけでありませんが。
三輪氏の場合、他の画家達とはちょっと違う動機もあったようです。
その動機については後述するとして、絵画の特徴を見ていきますと。
 

やはり、西洋画家が描く戦争画とはだいぶ違います。
様式美。絞られた色彩。デフォルメされた表現。
緻密な描写や、正確な表現を重んじる西洋画とは、かなり異なる表現で、戦争の場面を描いています。
物を正確に画面に描き出すことよりも、事象を観念的に画面に再現しているといえるのではないでしょうか。
ソロモンのツラギ沖で日本海軍が夜戦で激しい海戦を行ったという事象を。

第一次ソロモン海戦
太平洋戦争が始まり、トラック、ラバウルと進出した日本海軍は、ソロモン諸島の一つ、ガダルカナル島に飛行場建設に適した地があることを発見、ルンガ飛行場を作ります。

さあこれで飛行機が出撃できるぞとなった矢先にアメリカ軍に襲われます。1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島のルンガ飛行場の向かい側、ツラギという島に、アメリカ軍が急襲。

ツラギ島にいた横浜海軍航空隊(飛行艇の航空隊だった)は壊滅。ツラギにいた日本海軍はほぼ全滅となってしまいました。

このツラギには、イケメン零戦パイロットの笹井醇一中尉の義兄が横浜海軍航空隊飛行長としていたのですが、戦死してしまい、そのことが笹井中尉に復讐の念をたぎらせたことは、「海軍航空隊跡めぐり:横浜海軍航空隊」や「ラバウルのリヒトホーフェン 笹井醇一」で書いた通りです。

 

 

 

 

ツラギを奇襲するとほぼ同時に、アメリカ軍はガダルカナル島にも上陸、日本軍がほぼ完成させたルンガ飛行場を奪います(アメリカが占領した後はヘンダーソン飛行場という名前になります)。
ここから果てしなく悲しいガダルカナル攻防戦が始まっていくのです。

一方、神重徳第八艦隊参謀が発案した殴りこみ作戦が採用されて、海軍第八艦隊は第八艦隊司令長官三川軍一中将のもと、ガダルカナル島とツラギ島奪還のために夜間にアメリカ艦隊に攻撃をしかけ、アメリカの輸送船を撃沈しガダルカナル島へのアメリカ軍の上陸と物資の上陸を防ぐという目的で出撃します。

1942年(昭和17年)8月8日の夜、重巡洋艦(要は大型の軍艦)の鳥海が旗艦で先頭を進み、重巡洋艦の青葉、加古、古鷹、衣笠、そして軽巡洋艦の天龍、夕張、それから駆逐艦夕凪が、ガダルカナルを目指してどっどっと縦型陣形でソロモンの海を進んでいきます。


この頃、ガダルカナル島の辺りにはアメリカ艦隊や輸送船がうじゃうじゃいました(夜でよく見れなかったのだけど)。
8月8日の真夜中、23時30分、ガダルカナル島のすぐ近くにある小さなサボ島に到達した日本海軍第八艦隊は「全軍突撃せよ~!」で、アメリカ艦隊に一斉攻撃をかけます。
 

ガダルカナル近辺の狭い海域を行き交いながら魚雷をばんばん放つわ、砲撃ぶっぱなすわ、照明弾打ち上げて明るくしてから撃ちまくるわ、めちゃくちゃ攻撃しまくります。
アメリカ側にとっては奇襲だったのびっくりしますが、すぐに反撃に出ます。でも夜の闇の中突然始まった夜戦で、どの艦が味方なのか敵なのかもよくわからない。指揮系統も混乱。
大混乱のうちに日本アメリカ双方に魚雷や砲撃を撃ちまくりましたが、結果は日本海軍のほぼ完全勝利となりました。
 

アメリカ側は、豪重巡洋艦キャンベラ、米重巡洋艦アストリア、クインシー、ヴィンセンスが撃沈され、重巡洋艦シカゴ、駆逐艦ラルフ・タルボット、パターソンが大破。
一方、日本側は撃沈された艦はなし。鳥海と青葉が損壊を受けたけど。
確かに、この第一次ソロモン海戦は、どう見ても、日本海軍の勝利であり、その後の負け戦を考えると、ソロモンにおけるレアな日本の勝利といえますね。
やっぱり日本海軍は夜戦に強い!と、第八艦隊は意気軒高でした。
 

しかし。
よく考えてみると。
アメリカ艦隊を何隻かやっつけたけど。
それでガダルカナル島やツラギ島からアメリカ軍を追っ払えたわけではなく。
アメリカの輸送船をつぶして、アメリカ兵や物資がガダルカナル島に上陸しないようにするっていう目的は、まったく達成されませんでした。艦船ばっかり攻撃していて、輸送船は攻撃しなかったので。
ルンガの飛行場も奪還できていない。
 

第一次ソロモン海戦で日本は勝ったには勝ったけど、その後のガダルカナル島の攻防戦においてほとんどインパクトを与えていない。日本軍の有利に結びつけられていない・・・。
第一次ソロモン海戦後、アメリカ軍はますますガダルカナルに兵や武器や食糧を上陸させ、飛行場を増やし、ガダルカナルにいた日本陸軍兵は追い詰められていく・・・。
ガダルカナルの日本兵を救うために、ラバウル航空隊の零戦隊や爆撃隊は無理して遠距離を飛んでガダルカナルのヘンダーソン飛行場やアメリカ艦隊や輸送船を攻撃する作戦を果てしなく繰り返し、消耗していく・・・。
このラバウル航空隊の奮戦は、私の敬愛する「ラバウルの零戦隊長 宮野善治郎」で書いておりますのでご参照ください。

 

 

 

第一次ソロモン海戦は、日本軍あるあるの、「日本軍は戦術的に勝利したが、戦略的には敗北した」戦いの一つとなってしまったのでした。

弟子達が戦地に向かった
しかしながら、太平洋戦争中、国民には細かい戦況は「勝利」以外知らされていませんから、第一次ソロモン海戦は日本海軍の大勝利として大々的に宣伝されました。
三輪氏の「ツラギ夜襲戦」もそういう背景のもと、描かれた絵画だと思います。

三輪氏は1942年(昭和17年)には従軍画家としてフィリピンに行っていますが、戦争中ほとんど「銃後」で過ごしています。三輪氏は既に40代でしたから召集される年齢ではありませんでした。そして、弟子達が次々と戦地に出征していくのを見送りました。当時三輪氏は、堂本印象の画塾・東丘社の塾頭となっていて、多くの塾生の指導をしていたのです。戦地に向かった弟子達の中には戦死をとげる者も出てきます。


2015年4月22日京都新聞の記事によると、三輪氏の息子さんが太平洋戦争中を振りかえり、三輪氏(父親)は自らは年齢ゆえに召集を免れており、その負い目が戦争画に積極的にさせたのではないかと述べておられたそうです。

戦後三輪氏が描いた日本画は、花鳥風月などを優しい目線で描いたものが多い気がするのは気のせいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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