ゲリラの捕虜となる
パラオを発った二式大艇二番機がセブ島近くの海に墜落後、海上を漂っていた搭乗員達のもとに、夜が明けて、現地住民のカヌーが近づいてきて救助してくれました。


(↑地図はWikiからお借りしています)

問題は、この時、福留参謀長と山本作戦参謀はZ作戦計画書と暗号書類という、超機密書類を防水書類ケースに入れて持っていたことです。
本来、この時にこの重要機密書類を海中に沈めないといけないと思いますが、セブ島は一応当時日本の占領地ですし、カヌーの現地住民がフレンドリーそうにみえたということで、二人は機密書類を持ったままだったのです。
ところが、親切そうに見えた現地住民は米匪軍と呼ばれている反日ゲリラ部隊だったのです。

武装ゲリラに捕まった福留参謀長たちは、山奥の小屋に入れられ監禁されます。
この時点で9名が生存していました。
彼らは捕虜になってしまったのです。

墜落しても生きていたことは喜ばしいことですが、太平洋戦争中、敵の捕虜になると言う事は、軍人にとって耐えがたいことでした。
岡村中尉は、ゲリラの目を盗んで、部下の搭乗員達に自決の方法を教えました。
本間氏はそのことを後に知り、著書『予科練の空 かかる同期の桜ありき』(光人社NF文庫)の中で、「さもありなん。いかにも岡村さんらしいな」と思ったそうです。
囚われた9名は、食事などを与えられながら、ゲリラに尋問される日々が続きます。

陸軍の大西隊長に救助される
一方、海軍中枢部はパニックです。
パラオを飛び立った二機の二式大艇の行方がわからず。
連合艦隊司令部が丸ごと行方不明になったようなものです。
しかも、福留参謀長と山本作戦参謀が持っていたZ作戦計画書類と暗号書には、連合艦隊の全容が書かれています。これがアメリカ側に渡れば、これ以降の作戦に大きな支障が出ます。

海軍中枢部は二機の二式大艇行方不明を外部にひた隠しにしました。機密扱いにして必死に二機の行方を捜します。ゆえにこの事件を海軍は「乙事件」と呼びました。そして、この件をセブ島を守る日本陸軍にも知らせませんでした。
海軍は2機の二式大艇とそれに搭乗した人達の行方を、必死に(そしてこっそりと)探しますが、まったくわからないままで、海軍中枢部の焦りは募ります。

ところが、意外なところから、思わぬ知らせが入ってきます。セブ島の日本陸軍からです。
その頃、セブ島では、陸軍独立歩兵第173大隊の隊長、大西精一中佐の部隊が対日ゲリラの掃討をするため戦っていました。
セブ島のゲリラを指揮しているのは、ジェームズ・M・クッシング陸軍中佐でした。彼はマッカーサー大将の命を受けてセブ島のゲリラ隊を指揮していたのでした。
ゲリラ隊は外見上はフィリピン人と変わらず、誰が親日市民で、誰が対日ゲリラなのか判別は難しかったようですが。大西隊長は果敢かつ緻密な作戦で次第にゲリラを追い詰めていき、一方でゲリラに関係ない現地のフィリピン人に対しては公平かつ温和に接するように努めました。


大西隊長がクッシング中佐が率いるゲリラの根拠地を突き止め追い詰めていくうちに、ゲリラ側から意外な使者が送られてきます。それが、捕虜となっていた岡村中尉だったのです。
 

ずっとゲリラに囚われていたので、その時の岡村中尉は、ぼろぼろの服装で足は草履、顔は土埃で汚れてひどく疲労していたそうですが、その両目には鋭い光がやどっていたそうです。
そして
「私は海軍中尉岡村松太郎という者です」と姿勢を正して言ったのです。
彼は捕虜となった経緯を話し、高級将校が囚われていること(ただし、福留中将については偽名を使った)を話し、クッシング中佐からの手紙を大西隊長に渡しました。
クッシング中佐は妻と子と共に陣地に閉じ込められ、包囲されてしまったので、捕虜を返還する代わりに、包囲を解くよう訴えてきたのです。

しかし、陸軍からすれば、せっかくゲリラを追い詰め撃滅のチャンスを迎えているのです。

岡村中尉は大西隊長に言います。
「念のため申し上げておきますが、〇〇中将は陸軍部隊の意志通りに行動していただいても依存はないと申しておられました。貴部隊のよろしいようにして下さい」

悩んだ末、大西隊長は、高級将校を含め捕虜になっている日本海軍を救うべきだと決断します。
クッシング中佐の申し出を受け入れ、大西隊長は海軍の捕虜たちを無事ゲリラから解放します。
この交渉の間に、大西隊長とクッシング中佐の間には奇妙な友情と信頼が芽生え、それが終戦後大西隊長を救うことになるのです。

この大西隊長、とても立派な心根の方だったようです。
解放された海軍の捕虜たちに対しても、礼を尽くして接し、衣服や食物を提供しました。

「お前ら、敵の捕虜になっていたのか」などとなじらず、疲労困憊している海軍将兵を労わったのです。

海軍中枢部の対応
陸軍から福留参謀長達の救出を知らされた海軍側は。
喜びました。一応。
しかし、解放された9名はすぐセブ市の水交社に軟禁状態にされました。連合艦隊司令部メンバーの3名と、二式大艇搭乗員6名は、別々の部屋に軟禁されます。
この乙事件を外部から隠すためもありましたし。
Z作戦計画書類と暗号書がどうなったのか!?という点がよくわからなかったので追及するためでもあります。

連合艦隊から派遣されてきた参謀が福留参謀長に問いただしますが。
「機密書類を納めた書類ケースを現地人に奪われたが、かれらはほとんどそれらに関心をいだいていはいなかった」
「クッシング中佐から、機密図書等に対する訊問は全くなかった」
と福留参謀長は答えます。

いや、機密書類、奪われてたんかい!?
その時点でアウト~!って私は思いますけど。
捕虜になったら自決しないといけないなんて、私は思いませんけれども。
超重要な機密書類をたとえ正規軍ではないにしても、ゲリラ側に、つまり敵側に奪われた時点でアウト!ですよね??
福留参謀長、責任取らないといけないよね??
そして、アメリカ側に読まれている可能性大だから、ただちにZ作戦に変更を加えたり、暗号書も奪われているから、暗号も変えないとね??
そう思いますよね??
これからアメリカと大海戦を決しようとしているのですから。

「連合艦隊司令部参謀長がゲリラに捕らえられ、機密書類が奪われたことは大不祥事である」
日本海軍中枢部はそう断言します。
うん、うん、そりゃそうだ。
で、福留参謀長を更迭するとか、左遷するんですよね??

と・こ・ろ・が。
海軍中枢部の結論は・・・「不問に付す」。
えええ~~~~~( ;∀;)
それはないでしょう~~~!

「不問に付す」理由としては。
 

  • 福留参謀長は自決するだろうと思われていた(オイ・・・)。
  • 福留参謀長が捕虜になって生還したことが外部に知られれば、海軍の伝統は崩壊する(どういう理屈なんじゃ・・・)。
  • ゲリラは正規の敵と解釈すべきではない。つまり福留参謀長は「正式な捕虜」になっていない。(なんちゅう、ヘリクツじゃ・・・)
  • 人材欠乏のおりである。(福留参謀長は海軍大学校首席卒業の秀才でした)
  • 福留参謀長も山本作戦参謀も負傷していたし、捕虜生活の間に体が弱っていたし、何度も自決しようとしたと言われている。(情状酌量の余地ありってことでしょうか・・・)
  • 利敵行為は認められない。
  • 陸軍側から責められていない。(この海軍乙事件に対し、普段仲が悪い陸軍・海軍にしては、陸軍の対応は穏やかで物分かりがいいもので、福留中将らを救出できたことを陸軍側はピュアに喜んでいました・・・)


しかも、「不問に付す」だけではないのです・・・。
福留中将も山本中佐も、この事件後、栄転します。

「福留中将一行が捕虜であったという一般の疑惑を一掃するため福留中将を栄転させることに定めた」
「福留中将は6月15日付で、第二航空艦隊司令長官に栄転」
「作戦参謀山本祐二中佐は5月1日付で海軍大佐に進級、第二駆逐艦司令とす」
 

ええ~~~~~!!
WHY??

吉村昭著『海軍乙事件』(文春文庫)によると、海軍中枢部にも、福留参謀長を軍法会議にかけるべきだと主張した人もいたそうですが。多数決でこういう処置になったと・・・。
いやあ、納得できませんわ・・・。

でも。
福留中将は第二航空艦隊司令長官になった後、結構頑張ってますので。「栄転」させたことはどうかと思いますけど、戦争末期の大変な時期に、使える奴は使うという方針はあながち間違ってはいなかったかも。

それと、同じく捕虜になった山本大佐は、後に第二艦隊参謀になり、戦艦大和に乗って昭和20年の大和特攻の時に戦死しております。だから、今となってはご冥福をお祈り致しますということになるかと・・・。

Z作戦機密書類の行方
一方で、どうやっても納得できないのは、海軍中枢部のZ作戦関係書類への対応ですよ。
Z作戦関連という機密書類がアメリカ側のゲリラに渡ったことは確実と、海軍中枢部も判断しています。
セブ島のゲリラ部隊地域に飛行機から「書類返せ、返さないと報復するぞ」というビラをまいてますから。
それなのに。海軍中枢部は、福留中将が「ゲリラは機密図書について重大な関心を抱いていなかった」という言葉に基づき、その機密書類がアメリカ側に渡っていないと判断するのです。暗号書も奪われているというのに。
結果、海軍はZ作戦計画を変更することはなく。暗号も変更しなかった・・・。

いや、これ、おかしいでしょう!?
私は、海軍乙事件で一番この点がおかしいと思います。
フツー、変えるでしょう!?
アメリカ軍に渡ったかどうかはっきりしないにしても、アメリカ側ゲリラに書類奪われているのだから、アメリカ軍に渡されて解読されたリスクがあると考えるのが常識ではないでしょうか。ましてや、次の決戦の作戦内容と暗号書でっせ!?
念のため、変更しておこうと、なぜ思わなかったのか・・・。
スーパーエリート秀才が揃っていたはずの海軍中枢部の思考回路がようわからん・・・
リスクマネジメント能力、ゼロ・・・。

事実。

奪われた機密書類がアメリカ軍に渡り、しっかり解読され、その後の戦いにアメリカ軍側に有利に利用されたことが、戦後はっきりわかっています。
ゲリラの隊長、クッシング中佐から、アメリカ軍に渡った機密書類は、アメリカ潜水艦に渡され、オーストラリアのブリスベーンにあったアメリカ陸軍情報部に送られたのでした。そしてすべてが翻訳され、アメリカ海軍情報部に届けられ、分析官に渡されたのでした。アメリカ海軍は重大な機密情報を入手して大興奮したそうです。

そして、この機密書類情報をもとに、アメリカ軍は日本軍の戦略構想を全部把握して、日本軍がどの船に乗ってきて、誰が指揮官か、燃料、火力、弱点まで知り尽くした上で、レイテ海戦に臨んだことがわかっています。
レイテ海戦は日本の大敗に終わったわけですが。アメリカ軍に機密情報が全部知られていたことのみが敗因ではないですが。それにしても、敗因の一つであることは否定できません。
日本側の戦史叢書にも「この暗号書および作戦計画の入手は、のちのレイテ湾海戦に重大な役割を演じたのである」と記されておりますからねえ・・・。

ただし。アメリカ軍に渡ったZ作戦計画書類と暗号書が、福留参謀長が持っていたものか、山本作戦参謀が持っていたのものか、どちらだったのかは、はっきりしていません。
吉村昭氏の調査によると、山本作戦参謀が持っていた方の書類だった可能性が高いと推察しています。

誠一筋
気の毒なのは、二番機を操縦していた岡村中尉です。

海軍中枢部に軟禁されている時、岡村中尉は、

「捕虜となったことは海軍軍人として最大の恥辱だ。このままおめおめと基地には帰れぬ。おれたちのとるべき道は自決以外にない」
と搭乗員達にいい、短刀を集めてきて自決する決意をします。
でも、それに気づいた福留参謀長に呼ばれ「この貴重な時期に搭乗員を失うことは日本海軍の損失だ。耐えがたきを忍んで思い直してほしい」と説得されます。
岡村中尉は渋々その言葉に従いながらも、
「おれたちはそれぞれ一機一艦の体当たり攻撃を敢行して恥辱を拭い去ることにつとめる。それまでの命だ」
と搭乗員たちに言います。

その後、岡村中尉は、サイパン基地に戻りましたが、たとえゲリラであっても捕虜になったことが忘れられず、心晴れない日々を過ごしていたようです。


6月12日、トラック島の基地にいた岡村中尉は、サイパン基地に敵機が押し寄せているという知らせを受け、トラックからサイパンへ向けて二式大艇で飛び立ちます。それが岡村中尉の最期でした。

おそらく、生還できないことを覚悟の上での出撃だったでしょう。

岡村中尉は、墜落・捕虜事件をずっと負い目として、常に死に所を求めていたようであったそうです。

本間氏は
「同じ事件に遭遇して、最高の軍事機密の漏洩をしながら口を拭って栄達する高級参謀もあれば、誠一筋その責任を負う下級士官のあったことを忘れることはできない」

と、その著書に書いています。
ここでいう「高級参謀」が、参謀長福留繁中将、作戦参謀山本裕二大佐であったことはいうまでもありません。
福留中将は、生きて終戦日を迎え、1971年永眠。享年80歳でした。

ウツウツとするところが多い海軍乙事件ですが。
一点だけ救いがあるとすれば。
福留参謀長達救出に成功した陸軍の大西隊長の戦後です。
 

終戦後、大西隊長はセブ島住民虐待の告発を受けてマニラ収容所に送られ、裁判にかけられ死刑にされそうになります。

しかし、事実は大西隊長はセブ島住民を好遇していたことが裁判中証言され、ゲリラ隊長だったクッシング中佐が出廷し、大西隊長に対して好意的な証言がされたのです。それで大西隊長は死刑を免れ無期懲役になり、その後巣鴨刑務所に移されて釈放になりました。
大西隊長のお人柄が、彼自身の命を救ったのだと思います。
 

 

 

 

 

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