日本海軍最大の不祥事、海軍乙事件
ダバオ誤報事件と並び、いや、それ以上に、日本海軍最大の不祥事といっても過言ではない海軍乙事件。
 

1943年(昭和18年)4月18日、ブイン上空で乗機を撃墜され戦死した山本五十六長官(これが海軍甲事件)。

彼の後を継いで連合艦隊司令長官になったのが古賀峯一長官。その古賀長官と幕僚達を乗せて、1944年(昭和19年)3月31日の夜、パラオからダバオへ向けて飛び立った二機の二式大艇が、悪天候ゆえか海に墜落。
古賀長官を乗せた一機目はどうなったのかわからない。搭乗していた人は全員死亡、機体もまったく見つからず。今になってもわからない。海に墜落してしまったのであろうということになっています。


連合艦隊司令長官が二人も続いて機上で戦死ということもショッキングですが。

もっとショッキングな点は、福留繁参謀長らを乗せた二番機も海に墜落して、搭乗していた人達の一部は生存したのですが、フィリピンのセブ島に泳ぎ着き、現地住民に救助された・・・と思ったら、日本に敵対するゲリラに捕まり捕虜になってしまったのでした。
いや、捕虜になったというだけならまだいいのですが、後のレイテ海戦などのためのZ作戦機密文書をゲリラ側に奪われ、それがアメリカ軍に渡され、その後のレイテ決戦の日本の惨敗を導く要因の一つになったのです。

私は海軍航空隊ファンですが。この海軍乙事件は、日本海軍の悪いところがぜ~んぶ出ちゃった事件だなあと思います。
その福留繁参謀長が乗った二番機の二式大艇を操縦したのが、岡村松太郎中尉。
岡村中尉も、機が墜落後も生存し、ゲリラに囚われることになるのです。

岡村中尉と飛行艇のペアを組んだことがある本間猛氏が書いた『予科練の空 かかる同期の桜ありき』(光人社NF文庫)に、岡村中尉のことが書かれています。


岡村中尉は佐賀県出身で、謹厳寡黙、まことに武人らしい軍人であったそうです。
昭和初期から海軍で飛行艇操縦員として活躍し、飛行艇の操縦にかけては神様ともいわれる大ベテランだったそうです。
 

こういう岡村中尉が操縦する二式大艇はなぜ海に墜落してしまったのか。
そこには、岡村中尉を責めるべきではない要因がいろいろあったのです。
そして、セブ島に泳ぎ着いてアメリカ側ゲリラに捕虜とされた後の岡村中尉の行動、その後の身の施し方を見ると、彼が立派な武人であったことがよくわかるのです。

パラオ大空襲
海軍乙事件については吉村昭氏の『海軍乙事件』(文春文庫)が詳しいです。

 

太平洋戦争後半、ラバウル航空隊は壊滅して孤立化、連合艦隊がかって太平洋の拠点としていたトラック島もアメリカ軍に大空襲され、中部太平洋の制海権はアメリカ側に奪われてしまっていました。
連合艦隊司令部はトラックからパラオに退いていました。この時の連合艦隊司令長官が古賀峯一大将、参謀長が福留繁中将でした。

(↑地図はWikiからお借りしています)
 

アメリカの機動部隊は次第に北上し迫ってくる中、連合艦隊司令部では、Z作戦という作戦計画が練られ、作戦方針、各部隊兵力の現状、配置、作戦方法などが詳細に記された作戦書がまとめられました。
そして、ついにアメリカ機動部隊がパラオに攻撃してくるのです。
1944年(昭和19年)3月30日から31日にかけて、アメリカの艦載機の大軍がパラオに殺到。
アメリカ軍の空襲は10回以上に及び、パラオにいた艦船は壊滅、航空機も撃墜、あるいは破壊され、壊滅状態に陥りました。
連合艦隊司令部はパラオの防空壕の中にいて無事だったのですが、パラオからフィリピンのミンダナオ島にあるダバオ基地に渡り、サイパンへ移動しようと計画していました。
激しい空爆を加えたアメリカ軍は次にパラオに上陸してくるだろうと予測したからです。

3月31日の夜、二式大艇2機で、パラオからダバオへ脱出することになりました。


↑二式大艇(写真はWikiからお借りしています)

第851航空隊(サイパン基地)の二式大艇を一番機として古賀峯一長官らが乗り、機長は難波正忠大尉。

第802航空隊(サイパン基地)の二式大艇を二番機として福留繁参謀長らが乗り、機長が岡村松太郎中尉。
(厳密にいえばもう一機、第851航空隊の二式大艇(この機はダバオにいた)が三番機として、司令部の暗号員らが乗ることになっていて、機長は安藤敏包中尉でした)

前述のとおり、岡村中尉はベテランの飛行艇操縦員でしたが、このダバオ行き飛行には不安がありました。なぜなら、岡村中尉はフィリピン方面を飛んだ経験はなく、ダバオに行ったことはありません。詳細な航空地図が欲しかったのですが無理で、簡単な地図しかもらえませんでした。しかし、一番機の難波大尉がパラオからダバオまで何回も飛行したことがあったので、難波大尉が道案内するといい、岡村中尉は安堵しました。
加えて、連合艦隊司令部の航空参謀であり、ダバオまでの航路をよく知っている小牧一郎少佐が搭乗すると言われ、岡村中尉はひとまず安心しました。

サイパン基地からダバオに飛んだ二機の二式大艇。ダバオに着水した時、雨が降ってきたそうです。速度系のピトー管に雨がかからぬようおおいがつけられました。(このおおいを、慌ててパラオを緊急発進した際に取ることを忘れてしまいました。)

二機の二式大艇は、ダバオに飛ぶために燃料補給をパラオで受ける予定でしたので待機していると、二人の参謀(誰かはわからないけど・・・)が乗り込んできて、燃料補給は必要ないから一刻も早く出発するんだ、敵機に空襲される、と言ってきました。「敵機編隊接近中」という緊急報告があったというのです(これはのちに、味方機を敵機と錯覚した警戒部隊の誤報であったことがわかっています。ダバオ誤報事件を彷彿とさせる・・・)

予定していた燃料補給ができないまま古賀長官はじめ連合艦隊司令部メンバーを乗せ、二機の二式大艇は飛び立ちます。一機に11名の司令部メンバーが搭乗したそうです。今にもアメリカ軍の空襲があるという雰囲気で現場は大変ピリピリしていたそうです。

難波中尉が操縦する二式大艇一番機が離水して飛び立った後、岡村中尉が操縦する二番機が飛び立ったのは5分後でした。
福留参謀長ら司令部メンバーの乗り込みに時間がかかったのです。
この5分の時間差は致命的でした。しかも、難波中尉の一番機は、今にもアメリカ軍がやってくるということで、フルスピードで飛行していったのです。
二番機は、誘導役をしてくれるはずだった一番機を見失ってしまいました。

しかし二式大艇には航法を担当する偵察員も乗っています。岡村中尉がダバオへ飛んだことがないということで、航空参謀の小牧一郎少佐が機長席のすぐ後ろに座りました。岡村中尉は自力でダバオへ向かおうとします。二式大艇には航法専門の偵察員も搭乗していますからね。

先に飛び立った古賀長官を乗せた一番機の方ですが。

結局、それっきり行方不明になりました。
敵機に撃墜されたのではなく、悪天候により遭難したと推定されています。

二番機、墜落
岡村中尉が操縦する二番機も、途中で豪雨になり、密雲の中に機は突っ込みます。雷雨性積乱雲でした。
しばらくすると雷雨を抜け晴れたのですが、機の方向は狂い、見えた陸地に向かって降下するも、ミンダナオ島にはみえない。どうやらカミギン島上空にいるらしいとわかったけれど、燃料不足であと30分しか飛行できなかったのです。パラオ離水時、燃料を補給できなかったことが悔やまれます。


しかたなく、セブ島沖に着水することにして(セブ市には海軍基地があった)、セブ市沖に着水しようとします。夜の真っ暗な海への着水は危険ですが、もう燃料がないので強行着水するしかありません。しかし、ここで、ピトー管におおいをかけたままだったので、速度がわからなかったのです。それが高度計の誤差を生んでしまいました。機は海上に突っ込んでしまいます。
着水失敗、墜落です。
二式大艇は破壊、炎上。
 

しかし、生存者が多くいました。
連合艦隊司令部サイドでは、福留繁参謀長、山本祐二作戦参謀、通信長山形中尉。
搭乗員ペアとしては、機長の岡村中尉をはじめ10名。
墜落直後には、合計13名が生きていました。

こうしてみると、岡村中尉が操縦する二式大艇が海に墜落してしまったのは、幾つもの不運が重なったゆえと言えます。
 

  • 正確な地図が提供されなかった。
  • 岡村中尉はダバオまでのルートを飛んだことがなく付近の地理に詳しくなかった。
  • 誘導役の一番機を見失ってしまった。
  • パラオで燃料を補給できなかった。
  • 搭乗していた偵察員、航空参謀も航法に有効な情報を提供できなかった。
  • 悪天候に襲われた。
  • ピトー管におおいがかけられたままで高度計の誤差を生んだ。


様々な要因で、二番機は着水失敗。
でも、これについて岡村中尉が責められるべき点は少ないと思います。

そして・・・せっかく生き残った岡村中尉達に、更なる悲劇が襲いかかるのです。
実は「海軍乙事件」の本当の闇は、二式大艇墜落後の出来事なのです。
 

(後編に続く)
 

 

 

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