高座海軍工廠
座間には、海軍ゆかりの戦跡と、陸軍ゆかりの戦跡とあり、ダブルで楽しめます。
太平洋戦争中、座間には高座海軍工廠があって、零戦の後継機(と期待された)の雷電の工場がありました。

そして、陸軍士官学校があった場所でもあります。

今回は、海軍編と陸軍編に分けて、座間戦跡を紹介したいと思います。

1943年(昭和18年)に、現在の座間市東原一帯に高座海軍工廠が開設されました。約1万人規模の工場で、新型の戦闘機「雷電」を生産する目的でした。工場の周りには、宿舎や倉庫も建てられました。

行き方はいろいろあると思いますが、私は小田急線の南林間駅で降りて、そこからバスに乗り、ひばりが丘一丁目のバス停で下車。周りは日産の工場だらけです。12分ほど歩くと、芹沢公園に着きます。起伏の激しい、木々に囲まれた、ひろーい公園です。



台湾少年工顕彰碑
芹沢公園の入り口の丘の上に、台湾少年工顕彰碑があります。

 


この碑の文を読んでいると、涙がうるうるしてきます・・・。

 

碑の隣には高座海軍工廠の説明看板があります。

 


太平洋戦争末期、高座海軍工廠で働いていた従業員の約8割は台湾出身の少年工でした。学徒動員の学生や勤労女子挺身隊もいましたが。(三島由紀夫もこの工場で働いていたとのこと。マジかっ⁉)
 

厳しくなる戦況下、不足する労働力を補うため、当時日本の統治下にあった台湾から少年達がここに連れてこられました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募して、日本にやってきました。基礎教育を受けた後、高座海軍工廠や、群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機などにも派遣されたそうです。台湾から来た少年工達は勤勉で、高い技術力が高く評価されたそうです。
でも、軍需工場ですから、アメリカのB29に空襲されて、命を落とした少年達も多かったのです。
昭和20年8月15日終戦を迎えた後、少年工達は台湾へ戻るのですが、彼らは自治組織を結成して、秩序正しく整然と帰国したそうです。
戦後、この地を思い出多き青春の地として訪れるかっての台湾の少年工の人達も多くいたそうです。彼らにより台湾高座会が結成され、親日の団体として今でも高座があった地を「第二の故郷」と呼んで下さっているとのこと。
戦時下で食べ物も満足になく、家族から離れて、空襲の危険もあり、けっして良いことばかりではなかったと思うのですが。台湾の少年工達は、高座の多くの農家のお母さんたちに優しく接してもらったことを忘れなかったそうです。
こういう歴史を知ると、日本は台湾と仲良くしていかないといかんな~って思いますねえ。
 

実は、私がこの碑をじーっと見ていたら、「台湾から来た方ですか?」と、この公園を訪れていた人から声をかけられました。いまだに、台湾から訪れる人がおられるようです。

芹沢の地下壕
芹沢公園はかなり深い谷のような公園になっています。
谷底へ降りていきますと、鬱蒼とした木々が茂り、遊歩道があちこちあります。
太平洋戦争中、空襲を避け、高座海軍工廠の工員と操業の安全を図るために、この芹沢公園の場所に、無数の地下壕をが作られました。3つの地下工場、10の物資倉庫があったそうです。地下壕の中にも地下壕が張り巡らされて、その総延長は1500メートルにもなるそうです。
地下壕の壁は箱根東軽石層という白い地層で、約66,000年前に起きた箱根火山の噴火による火山灰でできているそうです。

遊歩道沿いに、防空壕のような穴があったけれど。


中には土などが堆積していて、よくわからないですね・・・。

芹沢公園の中では、2つの地下壕がライトアップされています。柵があるから中には入れないのですけど。

 

 

 

一つは模型の雷電つき。
雷電の模型はかなり小さ目ですけど。やっぱり、これがあるのとないとでは大分違いますねえ。置いてくれて、ありがたいです。

もう一個地下壕があるけれど、ここは二重の柵で囲われていて、近づけず。コンクリートの建造物があるのだけれど。

 


地下壕の入り口にあったこれ、高座海軍工廠ゆかりのものだろうか??

私が地下壕を覗き込んで写真を獲りまくっていたら。
同じくこの地下壕を見に来たという男性が、「この地下壕、映画雪風のロケでも使われたんですよね」と教えてくれまして。
え??「雪風」に??私、見たけど、憶えてないぞ・・・。どの場面だろう??
アマゾンプライムに降りてきたら、もう一度見て、確認しようと思います。

雷電は悍馬だった
太平洋戦争後半になると、零戦を上回る機能を持つアメリカの戦闘機グラマンF6Fヘルキャットとか出てきて。

零戦の後継機が課題だったのだけど、雷電はその後継機として期待されて、零戦を作った堀越技師の設計で三菱重工業が造りました。乙戦とも呼ばれました。アメリカ軍のコードネームはジャックJack.

 

 
↑雷電(写真はWikiからお借りしました)

 

強力馬力の火星エンジンを搭載して、1万メートルの高高度で戦えて、上昇力とスピードに優れていました。20ミリ機関銃を4つも装備。操縦席の後に厚防弾鋼板を装備して、翼内タンクに自動消火装置を装備、風防に防弾ガラスを使用と、防御力もレベルアップさせました。
でも、あまり搭乗員には評判がよくなかったようで。整備もしにくかったらしい。(まあ、これは戦争末期の新鋭機はみんなそうだったようですが) 

背が高いので前方が見えにくく、搭乗員は乗りにくいと感じたそうです。
戦闘311飛行隊長であった田淵幸輔大尉は、筑波航空隊で雷電を操縦したそうですが「雷電は悍馬のようなところがあった」そうです。(雨倉孝之著『飛行隊長が語る勝者の条件』(光人社NF文庫))

 

結局雷電よりも、あとから製造された紫電改の方が評判がよくなってしまったみたいです。
ただ雷電は上昇スピードがすごいってことで、本土防衛で対B29迎撃には結構効果を上げたとされています。
小園安名大佐率いる厚木海軍航空隊の雷電隊は、B29を撃墜して大きな成果を挙げています。特に雷電隊の赤松貞明中尉は雷電を使いこなしたエース。まあ、赤松中尉は、雷電よりも、その他の強烈なエピソードの方が有名な方ですけれども・・・(笑)。

横須賀海軍航空隊で、数々の試作機のテストパイロットをした山本重久少佐は、雷電について「操縦感覚はよかったよ。軽快で。ちょっと旋回圏は大きいけどね。月光や天雷にも乗ったけれど、紫電改がいちばん優れていたようだよ」と語っています。(雨倉孝之著『飛行隊長が語る勝者の条件』(光人社NF文庫))

現在、雷電の現存機体は日本にありません。
厚木航空隊の雷電隊の雷電も、終戦後、谷底に投げ捨てられてしまいましたからねえ・・・。
・・・ということは、現在の厚木基地の地面の下に、雷電の亡骸が埋まっているのだろうか?

Wikiによれば、フィリピンで鹵獲された雷電が、アメリカ・カリフォルニア州チノのプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に一機保存されているそうですが。

また、高座海軍工廠で製造されたとみられる雷電の部品が発見されて、座間市役所へ寄贈されたそうなのです。どこかに常設展示されている様子はなく。かって展示されたことがあるそうなので、再展示されることを心待ちにしています。

 

 

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