工都と呼ばれた街
板橋にビジュアル的にドエライ陸軍戦跡がある・・・。
そう聞いてはいたのですが。

板橋ならいつでも行けるか~と思い、延ばし延ばしにしているうちに。一部取り壊しが始まってマンションが建設中という噂を聞いて慌てる( ;∀;)。急いで行かねば~と、板橋を訪ねてきました。


板橋の地にはかって日本初の官営の火薬工場が明治9年に作られ、明治36年には陸軍板橋火薬製造所が置かれました。

太平洋戦争の終戦まで、日本陸軍の火薬の製造と研究の中心地となっていたのでした。

鉄砲にも、大砲にも、ダイナマイトにも、火薬は必要ですからね~。
終戦後は板橋火薬製造所とその周辺の跡地をGHQが管理し、民間の企業、学校、研究機関に貸し出しました。
石神井川の周辺にある公園やその周りに、かって「工都」と呼ばれた板橋の日本陸軍の火薬製造所の名残があります。
以前訪れた十条は、東京第一陸軍造兵廠で、板橋は東京第二陸軍造兵廠に属します。

 

 


陸軍板橋火薬製造所跡
石神井川の周りは木々に囲まれ、公園が多くあり、市民のお散歩コースになっているようです。秋散歩にはちょうどいい場所ですね。川沿いに、動物達の彫刻がいろいろ設置されています。



最寄り駅としては、都営三田線の新板橋駅が一番近いと思います。石神井川方面に下り坂を歩いて行くと、緑のこんもりした空間が広がっています。この一帯は江戸時代は加賀藩のものだったということで、土地名に「加賀」がたくさん入っています。


 

まずは加賀公園へ。


 

ここにどーん!とすごい陸軍戦跡があります。

 

弾薬の性能を実射し検査した弾道管。
フェンスで囲まれて中には入れないのだけど(特別公開日だけ入れる)。
ド迫力。約30メートルの長さが残されています。
説明看板によれば、この弾道管は、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置だそうです。
このような設備が残されているのは全国的にも珍しいということですよ。



周辺にも様々な関連施設が残っています。

↑爆薬製造実験室
弾道管の横のコンクリートの小屋のようなもの。昭和10年建設。

奥の白い建物は、燃焼実験室。

マンションとの対比がなんとも・・・(^^;)

↑常温貯蔵室
昭和9年建設。コンクリート造。

↑加温貯蔵室

↑擁壁
弾道管等の試験施設との間を隔てるための壁。

↑射垜
露天式発射場の的。

これらの施設は、2017年に国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」として指定されたので、壊されることはないからよかったです。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡
加賀公園の石神井川を挟んだ向かい側には、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所がありました。

「造兵廠」とは、兵器や火薬などの軍必需品の製造や研究、開発、修理を担当した部門です。

軍の武器係ですね。
ここは、かって、理化学研究所板橋分所があった所でもあります。

陸軍といえば赤煉瓦。
昭和初期に建てられた物理試験室などの建物が残されています。
フェンスが張り巡らされていて中には入れませんが、この一帯は、国史跡になっています。




板橋区では、この周辺一帯を「史跡公園」として整備するということで、これらの旧理化学研究所板橋分所の建物を活用して「産業ミュージアム(仮称)」の整備を計画しているそうです。令和11年度中のオープンを目指しているということで、まだ少し先の話ですが。
どのように変わっていくのでしょうかねえ。


この古そうなコンクリート管も、旧陸軍に関係あるのかな?


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所があった場所の一部は、戦後、愛歯技工研究所があったのですが。
取り壊されて、モダンなマンション建設中~。あたり一帯、すべて更地にされ、大マンション工事が進行していました。
ああ、また戦跡が一つ消えていく・・・。
すべての戦跡を残すわけにもいきませんし。広大な旧軍用地を再活用しないのはもったいないという気持ちは理解できますがね。
やっぱりね~、終戦80年ともなると、戦跡は、早め早めに見て、記録しておかないと~、どんどん消えていきますねえ。

圧磨機圧輪記念碑
これもビジュアル的にド迫力。

王子新道沿いにある板橋区立加賀西公園、加賀スポーツセンターの奥にあるのが、板橋火薬製造所で使われた圧磨機圧輪です。


円が4つ重なったような「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にあります。



 

説明看板によると。
1865年(慶応元年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。澤太郎左衛門は旧幕臣で榎本武揚とともに函館戦争を戦った人だそうです。降伏後、明治政府で海軍兵学校の教官を務めました。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤さんが最初だったそうです。
この澤さん、帰国後、小栗上野介忠順などが北区滝野川で企画していた江戸幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わっていますので、2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣 小栗上野介忠順」に出て来るかな~?(ただし、明治維新で工事は中断されていますが)



1876年(明治9年)から火薬製造所を開設して、黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用され始めたそうです。
圧磨機圧輪で、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いたそうです。
でも、1906年(明治39年)には、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用も停止になり、それからは記念碑として保存されています。だから、「戦跡」とは言えないかもしれませんね。
板橋区登録文化財に指定されていますので、これからも保存されていくでしょう。

招魂之碑
 

同じ公園内にある招魂之碑。1902年(明治 35 年)、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が、隣接する建物に延焼。消火活動の指揮を執った人達や火薬の搬出にあたった人達、合計 10 名が亡くなりました。その事故の犠牲者を悼む碑です。

コミュニケーションステージ レンガパーク
再び石神井川沿いに戻って、加賀一丁目緑橋緑地という川沿いの散歩道のような、細長い公園のようなスペースに、赤煉瓦モニュメントが置かれています。

 


赤煉瓦といったら日本陸軍ですね。
説明看板によると。
明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用。加賀1・2丁目にあった日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)の一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになったそうです。
だいぶ、つぶれてしまっているけど、東京陸軍砲兵工廠のマークを確認できます。

 

 

板橋憲兵分隊の門柱跡
それから王子新道を板橋区役所駅方面に歩いていくと、ザ・下町という感じの仲宿商店街に出ます。

この商店街のあたりにはかって板橋憲兵分隊が置かれ、その門柱が1本だけ残されています。

 

「千歳総業(株)」の看板が貼られているから、これは千歳総業さんの所有物ということなのだろうか?

う~ん、商店街の一角に、時代に忘れられたような憲兵隊門柱があるとは。なかなか、シュールな光景です。
 

門の下に、かすか~に「陸」っぽい文字が見える。これは陸軍境界柱かな?

板橋の戦跡は、都営三田線の新板橋駅から板橋区役所駅にかけて点在しており、新板橋駅から1時間ほどで回れる手頃さです。

しかし、ビジュアル的なインパクトは、かなりなものがあります。
こんな賑やかな人々が行き交う場所に、しっかり戦跡が残されているとは、さすが、工都板橋だと思いました。
令和11年にオープンするという史跡公園がどんな風になるか、楽しみです。

そして陸軍板橋火薬製造所跡は、特別公開日には中に入れるのですが。
近代化遺産全国一斉公開というものが毎年行われるので、そのタイミングで特別公開されるとのこと。残念ながら今年の公開日は10月だったのでもう過ぎてしまった。来年のお楽しみですね。


 

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