アメリカ軍が迫るフィリピン、ツゲガラオ基地
マレー沖海戦で日本海軍の攻撃隊がイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを沈めましたが、レパルスに爆弾を撃ち込んだ美幌海軍航空隊の一人が岩崎嘉秋氏でした。
その岩崎氏の著した『われレパルスに投弾命中せり』の中に、昭和20年3月、アメリカ軍が迫ってくる中、フィリピンの中で唯一日本軍がまだ使えた飛行場、ツゲガラオ基地に残存している将兵を救出に向かった時のことが書かれています。
その時岩崎氏を迎えたツゲガラオの海軍側の基地指揮官が、筒井大尉でした。
筒井大尉のことがずっと気になっていて。筒井大尉のファーストネームは何なのか(岩崎さんの本には苗字しか書かれていなかった)、いろいろ文献や資料を当たっていたのですが。やっと見つけました。『戦史叢書054巻 南西方面海軍作戦 ―第二弾作戦以降―』の「第9章 マニラ失陥から終戦まで」の中に、「筒井四郎大尉」の文字を。
『戦史叢書』はネットで公開されていますから、誰でも読めますけれど、読んでみたことがある方はおわかりと思いますが・・・文字が小さくとにかく目が疲れます・・・素人にはわかりにくい表現も多いし、大量だし、必ずしも時系列順になっていないし。読むのにかなり苦労します・・・。
しばらく『戦史叢書』と格闘した末に、やっとみつけた筒井四郎大尉のお名前・・・。
岩崎さんの本を読んでわかったことは、筒井大尉は、福島県出身であり、海軍兵学校卒ではなく、予備士官であるということ。
昭和20年2月に大尉ということは、13期や14期ではなく、もっと前の時期に志願で海軍に入った予備士官であろうと思います。
そしてそのお人柄は崇高としかいいようがない・・・。
昭和20年(1945年)3月末のフィリピンといったら、アメリカ軍が北上してくる中、日本軍には飛ばせる飛行機もなく、搭乗員達もジャングルの中をさ迷って、やっとツゲガラオ基地にたどり着いた状態。フィリピンの他の飛行場は、アメリカ軍に占領されていました。ツゲガラオ飛行場も頻繁に襲来するアメリカ軍の戦闘機や爆撃機で、穴ぼこだらけになっていました。
誰の目にも、戦況が絶望的であることがわかります。翼を失った搭乗員達は、このままツゲガラオに残れば、陸戦隊として地上戦を戦い、やがて玉砕していく運命にあると思えました。
海軍上層部は貴重な搭乗員をなんとか救出しようと救出機を幾度かツゲガラオに向かわせるのですが、未帰還になったり、撃墜されたりで。ミイラ取りがミイラになる状態になり、救出を諦めざるを得ません。(『戦史叢書』では昭和20年2月10日をもってツゲガラオからの飛行機による搭乗員救出を断念したと書かれていました・・・)
そんな中で、海軍と陸軍は、1機づつ、最後の救出機をツゲガラオ基地に向かわせることにします。
その海軍機を操縦していたのが岩崎氏(当時飛曹長)で、ツゲガラオ飛行場で彼を出迎えた海軍側の基地指揮官が、筒井四郎大尉でした。
岩崎さんの重要ミッション
岩崎賀秋は美幌海軍航空隊で一式陸攻を操縦しマレー沖海戦に参戦したのを皮切りに、ラバウルやソロモンなど激戦地を戦い、あの「中攻隊に檜貝あり」の檜貝襄治少佐の率いる701空に属しました。
昭和18年(1943年)1月のレンネル島沖海戦で檜貝少佐が出撃した時、岩崎さんは留守番で、ラバウルの基地で電信員が受信する攻撃隊からの連絡を待っていました。夕方「全軍突撃セヨ」の電文が入り、檜貝少佐の名指揮ぶりと、指揮官としての断固たる決意と闘魂をまざまざと感じたそうです。檜貝少佐の機はアメリカ艦隊に向けて突っ込むも一度やり直しをして、再度突入し、魚雷を放った後、敵戦艦の艦橋に体当たりしたと伝えられました。檜貝少佐機の炎で戦艦の姿がはっきり映し出され、後続の列機は発射角度を修正し、適切な照準を合わせて魚雷を放つことができたそうです。
陸攻隊の人が書いた本を読むと必ず、檜貝少佐のことが敬意をもって書かれているので、檜貝少佐ってよっぽど海軍航空隊の中で秀でていて、尊敬されていたのでしょうねえ。
岩崎さんはその後、横須賀航空隊で雷撃の特修を受けることになったのですが・・・その時の身体検査で聴力に問題ありとされ、雷撃隊から抜けて、輸送任務の航空隊に異動になります。
岩崎さんとしては不本意だったかもしれませんが・・・輸送任務についてからの方が、岩崎さんの本領発揮で、仲間を救出するための使命を必死に果たしていきます。
零戦が蒼穹を舞いグラマンと空中戦を演じる勇姿や、一式陸攻がソロモンの海をまっすぐに敵艦隊に向けて雷撃する迫力は、ドギマギしますが。岩崎さんが太平洋戦争後半に所属した第1001海軍航空隊や第1021海軍航空隊の、仲間の救出任務もとても重要なミッションです。
1000台は輸送任務を担った航空隊ですね。
飛ぶ先はたいていアメリカ軍に激しい攻撃を加えられている激戦地。
そこで味方の救出機を待っている日本軍の将兵達がいる。
決死の救出任務を岩崎さん達は担います。岩崎さん達の任務は敵を攻撃することではありません。味方に医薬品や食糧などの必要物資を運び、窮地の将兵を救出することなのです。これほど味方に感謝される任務はないのではないかと思います。
岩崎さんは硫黄島、那覇、ルソン島・・・。過酷な戦場から将兵を脱出させる任務を担っていきます。
ツゲガラオへ最後の救出機が向かう
昭和20年が明けて、フィリピンのラウレル大統領を救出する任務のために待機せよということで、岩崎さんが高雄で待っていると・・・。ラウレル大統領救出の前に、ツゲガラオ基地にいる日本軍将兵を救出せよという命令が下ります。
昭和20年(1945年)2月28日のことでした。
昭和20年1月にアメリカ軍がフィリピンのリンガエンに上陸し、クラーク、ニコルスの飛行場はアメリカに占拠されていました。エチャゲとツゲガラオ飛行場だけが残っていましたが、制空権はアメリカ側に握られ、頻繁に空爆されています。しかし、ツゲガラオ飛行場だけはなんとか日本軍が持ちこたえ、飛行機の離着陸がまだ可能でした。海軍の残留部隊はルソン島を北進して、ツゲガラオ基地になんとかたどり着き、救出を待っていました。
岩崎さんはダグラス3型輸送機で、そのツゲガラオ基地に飛び、30名の将兵を救出する命令を受けたのです。
沖縄作戦が迫っており、救出機を向けても次々未帰還となり、海軍上層部としてもフィリピン島救出作戦を諦めざるをえない状況に追い込まれていました。そんな時に、最後の救出機として、岩崎さんがダグラスを飛ばすことになったのです。陸軍からも、救出機を1機飛ばすことになりました。
海軍、陸軍ともに、これが、最後の救出機でした。
岩崎さんは医薬品、水、食糧、新聞などの物資を積んで、ツゲガラオ基地に向かいます。
そしてなんとか無事にツゲガラオ基地に着陸できました。しかし、陸軍機の方はアメリカ軍に撃墜され墜落、炎上してしまいました。
つまり、ツゲガラオ基地に救出機としてたどり着けたのは、岩崎さんの操縦する海軍のダグラス一機のみだったのです。定員は30名までしか乗れません。
ツゲガラオ基地ではみんな歓呼して岩崎さん達を迎えました。搭乗予定者は既に整列して待っていました。みんな、重い荷物やカバンを持っていたのですが、岩崎さんは皆を説得して荷物を捨てさせます。皆が荷物を捨ててくれれば、もう1名乗せられると。皆は理解して、「是非そうしてください!」と荷物の持ち込みを諦めてくれました。これで31名乗せられます。
岩崎さんは、予定外の1名を、自分と同郷の者、福島県出身者を乗せることにして、福島県出身者はいないか基地隊に尋ねますと、基地指揮官がそうだというのです。その基地指揮官が筒井大尉でした。
指揮官としてこの基地を離れることはできません
筒井大尉は童顔で、透徹した瞳で崇高なまでに緊張していたそうです。
岩崎さんは基地の隅に筒井大尉を連れて行き、実は自分の機が救出の最後の機であることを打ち明け、「あと1名乗れますから、私と同郷のあなたが私の飛行機に乗ってください」と伝えます。何回も搭乗を勧めます。
筒井大尉はじっと黙って俯いていたそうです。そして・・・
「機長の親切心は、よくわかりました。涙の出るほど有難く思っています。(中略)私は、いまここから逃げ出すわけにはいきません。たとえあなたの便が最後であっても・・・(中略)敵が北上しつつあることも、私は知っております。たとえ一名でも部下をもっているかぎり、指揮官としてこの基地を離れることはできません」
筒井大尉の返事を聞いて、岩崎さんは打ちのめされます。
基地の周辺はゲリラに囲まれ、空からの攻撃を受け、これからどうしてゆくのだろう。武器らしい武器もなく、食糧さえ満足にない。医薬品もない。しかもアメリカ軍がマニラ平原をひた押しに北進している。対抗するに何をもって武器とするのか。
そんな岩崎さんの疑問に答えるように、筒井大尉はその純粋な瞳を向けているのです。
岩崎さんは筒井大尉を見て思います。
「戦争とひた向きに取り組んでいるだけなのだ。正面から純粋に立ち向かっているというよりほかに言いようがない。卑怯な気持ちや、未練がましい気持ちは、彼のどこにも見出すことができなかった。」
岩崎さんは涙が溢れて止まりません。
いや、私もこの箇所を読むたび、泣けます・・・(涙)。
日本軍の中には、部下をうっちゃって自分だけ飛行機でさっさと脱出した某指揮官もいたし、自分は大事な任務を背負っているから飛行機に乗せてくれと懇願した某高級参謀もいたし・・・。そんな人達もいるのに、筒井大尉のこの崇高な決意には言葉もありません・・・。
そんな岩崎さんに筒井大尉は言います。
「機長、一刻も早く出発して下さい。戦闘機が来るといけません。急いで下さい。私にかまわず早く・・・」
岩崎さんと筒井大尉は固い握手を交わします。
「機長、無事に帰ってください。私はそれだけを祈っています。今後ふたたびお会いしてお礼を言うことはできますまい。本当にありがとうございました」
岩崎さんは胸がつまってもう何も言えませんでした・・・。
他の1名を搭乗させ、31名を乗せて、岩崎さんのダグラス機は、ツゲガラオ基地を飛び立ちます。
そして筒井大尉の祈りが通じたのか、岩崎さんのダグラス機は無事高雄に帰ることができました。
ラウレル大統領救出作戦
岩崎さんの著書に紹介されていた『海鷲の航跡 日本海軍航空外史』(海空会編 原書房)の中に収められている佐藤香氏の「ラウレル、フィリピン大統領救出の記」に、筒井大尉が出てくるということで読んでみました。この本絶版なので、国会図書館のデジタル版で読んでみました。
佐藤香氏は、第1001海軍航空隊所属で、当時、中尉で一式陸攻の偵察員、小川荒太郎少尉が操縦で、このペアは支那事変以来の海軍ベテラン搭乗員だそうです。
佐藤中尉はフィリピンのラウエル大統領救出の命を受けます。
陸軍と連携して任務を行うことになり、まずは偵察機を出します。しかし、陸軍機2機、海軍機4機偵察に飛ばしたけれど、すべて未帰還。敵機に撃墜された模様・・・。
佐藤中尉の一式陸攻も2回偵察に出て、アメリカ戦闘機に2回とも襲われますが、なんとか逃げ切ります。いや、ほんと、フィリピンは完全にアメリカに制空権を握られていたのですね・・・。
そして、昭和20年3月28日、陸海軍6機でツゲガラオへ向かいました。陸軍戦闘機5機が掩護につきました。岩崎さんが筒井大尉と別れてから約1カ月後ですね。
ところが、佐藤機は離陸後故障でやり直しになり、僚機に20分遅れて出発することになりました。
単機、暗夜の超低空飛行でツゲガラオへ向かいます。
でも・・・先に出発した陸軍の僚機は途中で撃墜され炎上していました・・・
佐藤機だけがツゲガラオに着陸できました。
ツゲガラオ基地に着陸すると陸軍が寄ってきたけれど、佐藤中尉が「これは海軍機である」とどなると、後ろのほうにいた筒井大尉が大喜び、「こんな時に来てくれるのは海軍機以外他にない」と叫んだそうです。
ここで筒井大尉が昭和20年3月28日、無事でいらしたことがわかります。
(佐藤さんの記述にも「筒井大尉」と書かれているだけで、ファーストネームがわからなかった・・・)
佐藤機に乗れるのは13名まで。
ラウエル大統領一行8名、連合艦隊参謀3名、村田フィリピン大使、真崎書記官、黒須飛曹長まで。
佐藤機はなんとか大統領一家救出任務を成し遂げました。
ありがとう、ありがとうと、助けられた人達から厚く感謝されたそうです。
昭和40年(1965年)にラウレル大統領の次男がフィリピンの駐日大使として来日、佐藤さんと小川さんは大使館に招かれ再会、当時のお礼を言われたそうです。
ツゲガラオ基地からの最後の電報
ラウエル大統領がツゲガラオ基地を脱出してすぐ、昭和20年3月末頃、ツゲガラオ基地指揮官から「北上してきた米軍とわれ交戦す」という電報が入りました。それは、筒井大尉が打った訣別の電報だったのでしょうか。
「ここにあなたが助かる席が用意されていますよ」
「これがあなたの助かる最後のチャンスですよ」
そう手を差し伸べられて、その手を断れる人なんているのだろうか。
私だったら、間違いなく「助かった~!よろしくお願いします!」と、救出機に乗り込んだと思います・・・。
筒井大尉は、ツゲガラオ基地がアメリカ軍に制圧されることは時間の問題であるとわかっていたわけで。それなのに、部下が1名でもいるかぎり指揮官としてここを離れることはできないと、激戦の地に留まるなんて・・・。
そこまで精神が透徹することって可能なんだろうか・・・。
筒井大尉のような立派な方が、あの戦争の時代にいらしたのだなあ。
筒井大尉はツゲガラオの地に永眠したのだろうか・・・。
フィリピンの各地では海軍守備隊の玉砕が相次いでいます。
筒井大尉も玉砕してしまったのだろうか・・・。
そう悲しく思っていた私ですが。
今回『戦史叢書』の中に筒井大尉の名をみつけて、もしかすると、筒井大尉はあの激戦を生き抜くことができたのではないだろうか??と希望を持つようになりました。
『戦史叢書』によれば。
昭和20年6月中旬、筒井大尉率いるツゲガラオ基地海軍守備隊が約650名残っており、6月20日からツゲガラオに攻めてきたアメリカ軍と戦い、飛行場を死守しようと夜間斬込隊などで奮戦している様子が書かれていました。
つまり、筒井大尉は昭和20年6月中旬までは生きておられたと。
そして、終戦を迎えた時、ツゲガラオ基地の海軍守備隊残存兵は約650名いたということなのです。ということは、昭和20年6月半ばから終戦の8月15日までの間に、ツゲガラオ基地にいた海軍兵達はほとんど生き抜いていると察せられます。
筒井大尉も生き抜いた一人に含まれていないだろうか。
戦争を生き抜いて、無事日本に帰国できてはいないだろうか。
少なくとも、その確率がゼロではないのでは?
ミーハーな海軍航空隊ファンの一民間人の私だけど。筒井大尉については今後も調査していきたいと思っています。
筒井大尉が部下達と共に、生きて日本に帰国できたことを、切に願っています。
しかし・・・『戦史叢書』を読んでいると・・・腹立つわ~。
フィリピンにアメリカ軍が侵攻して守備隊が必死に戦うも次々戦死している状況下で、陸軍と海軍のどっちが指揮官か!?という先任争いや(この期に及んでそれやる!?)、参謀同士のケンカじみた対立や、作戦方針の対立、不一致。いや、もう、赤裸々な陸軍、海軍のヤミが綴られています・・・
君達、筒井大尉の爪のアカでも煎じて飲みたまえ!と言いたくなります・・・。
筒井大尉のことを知るためのお勧め本
岩崎嘉秋著『われレパルスに投弾命中せり ある陸攻操縦員の生還』光人社NF文庫

筒井大尉のことが書かれている本といえば、いまのところこの一冊だと思います。

