徳島白菊特攻隊
「戦跡訪問:関口特攻兄弟 後編」で紹介しました菅原完氏の本『無名戦士の最後の戦い』には、海軍機上作業練習機「白菊」で徳島海軍航空隊から特攻隊として命を散らした「知られざる練習機特攻 徳島白菊特攻隊の悲劇」の章があり、涙なしには読めませんと書きましたが。

 


2025年8月14日、千玄室さんが亡くなったと知り、ご冥福を祈る気持ちをこめて、徳島白菊特攻隊について書きたいと思います。

千さんは大学生から海軍予備飛行学生になり、太平洋戦争末期、徳島海軍航空隊に配属、ここで編成された白菊特攻隊の隊員となりました。その縁から、千さんは昨年鹿児島の串良平和記念公園に終戦79年目にして建立された徳島白菊特攻隊の慰霊碑の碑文を書かれています。


今年のインタビューの様子を見て、千さんは102歳というご高齢ながら元気だとお見受けしたのですが・・・。

千さんのご冥福をお祈り致します。

特攻隊員の気持ちを語り、平和を願い、茶道を通しての国際的な平和交流。平和を願ってウクライナでお茶を点てられた活動には感動しました。茶道を架け橋にして、戦争の悲惨さ、平和の尊さを訴え続ける活動を続けてこられた千さんの「戦後」が終わりましたね。
ちなみに「水戸黄門」で徳川光圀を演じた俳優、西村晃さんも徳島白菊特攻隊の隊員でした。
千さんも西村さんも、出撃命令を受ける前に、終戦を迎えています。

練習機、白菊
まず、この白菊という飛行機。これは練習機です。

機上作業練習機といって、操縦員以外の搭乗員(偵察員や電信員など)の訓練のために使われた飛行機です。零戦などの戦闘機は一人乗りですが、彗星、銀河などの爆撃機になると、操縦員の他に、航法を担当する偵察員や電信を打つ電信員や、航空写真を撮る係など、パイロット以外の任務を行う搭乗員が必要で、彼等の訓練のために開発された飛行機で、5人まで搭乗できました。九州飛行機開発。
練習機ですから、安定性や操縦性はよかったそうです。
 

(写真はWikiからお借りしています)

しかし、スピードは出ません。零戦の半分くらいのスピードしか出ません。
しかも特攻のために250キロもの重い爆弾を2個、両翼にぶら下げましたから、スピードは最高でも時速180キロになったといわれます。太平洋戦争後半に空を飛んでいた最新型零戦やアメリカの戦闘機F6Fヘルキャットは速度が550~570キロですから、白菊のスピードは本当に「練習機」レベルだったのです。戦闘機が飛び交う中、白菊が飛んでいたら、「んん?!なんか、飛んでるけど??」とのけぞってしまうくらいの遅さなのです。
「関口特攻兄弟 後編」で書いた水上偵察機よりも、陸軍の第79振武隊の練習機よりも、遅いスピードなのです。
この白菊で特攻させるって、当時の海軍のお偉いさん達は頭おかしくなっていたとちゃうか!?と憤りを覚えます。
しかし。
白菊隊員たちは、涙ぐましい努力で、このスロー練習機でもって、アメリカ艦隊に損害を与えています。

徳島海軍航空隊
戦況悪化に伴い、頭のネジが何本もぶっ飛んでいたような大本営は、昭和20年(1945年)1月から、「全軍特攻」というとんでもない方針を決定。日本各地にあった練習航空隊に練習はやめよ、特攻隊を編成し、特攻のための訓練をせよと命令します。(これは海軍も、陸軍もそう)
白菊で練習していた海軍の高知航空隊では菊水白菊隊、徳島航空隊では徳島白菊隊、大井航空隊では八洲隊、鈴鹿航空隊では若菊隊という特攻隊が編成されていきます。

徳島海軍航空隊は、もともと白菊による偵察練習航空隊でしたが。
大本営の命令を受けて、徳島航空隊では白菊特攻隊員の志願を募り・・・って、もう、このブログでも何回も書いてきましたが。「志願」が本当に「志願」だったのか、実は指名だったのか、同調圧力による半強制的な「志願」だったのか、議論が分かれるところなのですが。

いずれにしろ、「志願しません」という回答は許されない状況だったのではないでしょうか。

白菊特攻隊が編成された昭和20年4月といえば、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始、4月7日に戦艦大和が沖縄へ向けて「水上特攻」して坊ノ岬沖海戦でアメリカに沈められた頃です。
多くの若者達は、もう事ここに至っては自分の命を投げ出してでも、国を、家族を守らなくてはならないと思い詰めていました。あるいは、そう思い詰めざるをえない状況に追い込まれていました。彼らの前に「生きる」「死なない」という選択肢は示されていなかったのです。
 

徳島白菊特攻隊として、250名が隊員となりました。
そしてアノ宇垣纏司令長官の第五航空艦隊の傘下に入りました。そう、海軍特攻の総本山ともいえる第五航艦です。

第五航空艦隊っていったって、もう「艦」なんてありませんでしたから。実際には特攻作戦の遂行が任務だったのです。


白菊特攻隊の特訓
ここから、白菊特攻隊の激しい訓練が始まります。
スピードが遅く、武器もない練習機で特攻するためには、昼間に飛んだらたちまちアメリカ戦闘機の餌食になるので、夜間攻撃をすることになります。夜間攻撃となれば、計器飛行ができなければなりません。計器だけを頼りに敵に向かって飛行するための訓練です。
それに、その頃はアメリカ軍はレーダーで近づく敵機を捕捉していましたから、レーダーに見つからないよう低空、高度100メートルを飛んでいなかくてはなりません。
加えて航法も勉強しなくてはなりません。徳島から九州の基地に飛び、そこから島伝いに沖縄へ向かうのですが、島の形や島影によって島名を識別するための訓練が積まれました。

夜の闇の中を高度100メートルの低空で海上を飛んでいくって、ベテランのパイロットでさえ難しい飛行です。
でも、白菊隊の隊員達はものすごく頑張ったのです。訓練終了時には、夜間飛行もでき、編隊飛行もでき、計器飛行も可能になっていて、めきめきと操縦技術を上達させたのです。
 

同じ特攻をするのなら、練習機ではなく、零戦や彗星で特攻したいと本音では思っていたかもしれませんが。

彼らは与えられた白菊で、攻撃を成功させるために精一杯の努力を重ねたのです。
でも、その努力は重ねれば重ねるほど、自らを死に近づける努力でした。
特攻隊員達は、10代から20代の若者です。どんな気持ちで必死に訓練していたかと思うと、胸が痛みます。

出撃
いよいよ、白菊特攻隊の出撃が始まります。沖縄戦の菊水七号作戦~菊水十号作戦に投入されました。
オレンジ色の白菊は戦闘機のような緑色に塗り替えられ、尾翼には菊水マークが描かれました。
白菊特攻隊は5回に渡り、鹿児島県の串良基地から出撃しました。
 

第一次が昭和20年5月24日出撃。
第二次が5月27日出撃。
第三次が5月28日出撃。
第四次が6月21日出撃。
第五次が6月25日出撃。
(第六次以降は中止)

白菊特攻隊だけが出撃したのではなくて、時間差で戦闘機や爆撃機も出撃し、先に戦闘機が敵戦闘機と交戦して白菊が敵艦に突入する機会を作る計画でした。
 

しかし、白菊は軽量化のために電信機器を一部の機体を除き外して出撃しています。「ワレ突撃ス」とか「只今ヨリ空母二突入ス」などの電信が送られてこないため、白菊隊の戦果は、同行した戦闘機が目視したことや、アメリカ軍の無線を傍受して推察するしかありませんでした。
一方、アメリカ軍はまさか練習機が特攻してくるとは思っていませんでしたし、白菊を識別していなかったので、アメリカ側の資料を見ても、白菊の戦果は明確でないところが多いです。
それでも、菅原氏はアメリカ軍側の資料を詳細に調べ上げて『無名戦士の最後の戦い』の中で、白菊隊が数々の戦果を挙げていることを確認しています。


駆逐艦アメンが体当たり攻撃され損害。
商船3船が突入され、小破。
駆逐艦シュブリックが突入され、被害甚大(しかしこれは白菊ではなく振武隊の攻撃かもしれない)
輸送艦1沈没。
中型揚陸船2船が突入され、沈没。

沖縄沖まで飛び、敵艦隊に到着することさえ困難ではないかと思われた白菊隊ですが、多くの白菊が沖縄の敵艦隊に攻撃をしていることがわかります。
しかし、5回に渡る出撃で、徳島白菊特攻隊は56名もが命を散らすことになってしまいました。

菅原氏は著書の中で、6月22日に沖縄の地上戦は終結しているのに、第五次白菊隊を6月25日に出撃させる必然性はなかっただろうと、当時の第五航艦司令部の判断を批判しています。本当に、菅原氏の批判の通りだと思います。

姉上様をどうか幸福にして上げて下さい。
徳島白菊特攻隊の第二次攻撃の一員だった田中正喜中尉。

東京出身。中央大学から海軍予備飛行学生第13期。享年22歳。
『雲ながるる果てに―戦没飛行予備学生の手記』(響林社文庫)に、田中さんがお父様へ残した最後の手紙が収められています。
 

田中さんはお母様を失くして、お姉様が母親代わりになってくれました。己の幸福を犠牲にして自分の世話をしてくれたお姉様への感謝の言葉、お姉様に幸せになってほしいという切なる思いが綴られています。
 

「我身の幸福を犠牲にした姉上様をどうか幸福にして上げて下さい。これが私の以前より胸を痛めて居りました事柄であります。どうか姉上様をくれぐれもお願ひ申し上げます」

そして手紙の最後には、こう書かれています。

君がため御盾となりてこの命
捨つべき秋の来るうれしさ

家族への手紙や遺書は当時検閲されていましたから、本音が書けたとは限りません。
また、残される家族の気持ちを思えば、「死にたくない」とか「辛い」とは、たとえ思っていたとしても書けなかったのかもしれません。家族を苦しめないように。
あるいは真に命を捨てるべき時が来た、と心を平らにしようとしていたのかもしれません。
でも、田中さんのお姉様の幸福を願う気持ち。これは嘘偽りのない言葉であったろうと思います。
田中さんのお姉様が弟さんが願っていた通りの幸福を手にすることができたよう、切に願います。

終戦後の徳島航空隊の悲劇
海軍上層部はで、本土決戦でも大量の白菊を特攻出撃させる計画でしたが、その前に終戦を迎えました。

第六次以降の白菊特攻隊が中止になって、よかった・・・。


しかし、徳島航空隊の悲劇は8月15日では終わりませんでした。
徳島航空隊の中原一雄海軍中尉と長島良次海軍少尉は、白菊特攻隊員に志願していたのですが、出撃することなく終戦を迎え、敗戦に強い衝撃と責任を感じ・・・部下の復員を見届けた後8月23日に、海軍の正装に着替えて、基地内の防空壕の中で互いに機銃を撃ち合って自決しました。二人とも享年23歳。
 

海上自衛隊の徳島航空基地には二人の慰霊碑があり、教育航空隊の学生達が命日に慰霊碑の清掃をして、お花を手向けているそうです。慰霊碑には「壮烈自刃乃碑」と刻まれているそうです。
 

中原中尉、長島少尉、生きてほしかったなあ・・。
強い責任感と純粋な心を持つがゆえに、自決の道を選んでしまったのだろうか。
お二人が責任を負う必要はなかったのに・・・。
責任を取るべき人は、お二人ではなく、もっと他の人、上の人であったはずなのに・・・。


特攻とは、真に冷酷非情なものである。

菅原氏は、そう著書の中で書いています。

徳島白菊特攻隊について知るためにお勧めの本
菅原完著「無名戦士の最後の戦い」(光人社NF文庫)

菅原氏は海軍兵学校77期。日本とアメリカの資料を丁寧に調査して、太平洋戦争史上有名ではないけれど、懸命に戦った「無名戦士」の生き様、死に様を書いて下さっている感動のノンフィクションです。

 

 

 

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