いろいろなことがあった厚木航空隊
豊田穣著『出撃 海軍航空隊決戦記』(集英社文庫)の中の一編「本土防空戦」の冒頭、
「昭和四十五年十一月一日、私(筆者)は、相模平野の北東にある厚木飛行場の周辺を歩いてみた。相鉄線の大和駅で降りて、タクシーで西に向かうと。左側に一段と高く飛行場が広がっている」
という文章があります。
豊田氏が訪ねた頃はベトナム戦争の頃で、厚木飛行場のアメリカ軍の戦闘機隊は大部分ベトナム方面に出撃していて、飛行場は空でした。
豊田氏が乗ったタクシーの運転手さんは言ったそうです。
「いろいろなことがありましたな。ここから零戦がB29を撃墜に行ったり、この飛行場が空襲されたり、それから終戦のときはあくまで抗戦するといってビラをまいたり、そしてマッカーサーがやってきました・・・」
このタクシー運転手さんの言葉が、厚木飛行場の数奇な運命を端的に表していると思います。
そう、「いろいろなこと」がありました、厚木飛行場には。
私は豊田氏のこの本を読みながら、東京から相鉄線に揺られて、豊田氏と同じ、大和駅で降り、厚木飛行場にあった厚木航空隊の名残を訪ねてきました。
終戦時、反乱を起こした厚木航空隊を思いながら。
厚木航空隊の反乱
昭和19年(1944年)の夏に、本土防衛のため三〇二海軍航空隊が編成され、厚木航空隊を基地としました。
司令が小園安名(こぞの やすな)大佐。かってラバウルで台南空を率い、笹井醇一中尉の上司でもあった方です。
三〇二空には、第一飛行隊の戦闘機(零戦と雷電)、第二飛行隊の彗星、月光(艦上爆撃機)、第三飛行隊の銀河(中距離爆撃機)、彩雲(長距離偵察機)と、飛行機の種類も揃っていました。飛行機数約100機、隊員は5000名以上という、大航空隊であったといえます。
しかし、零戦後継の最新戦闘機である紫電改は一機もなかったのでした。紫電改は、源田実大佐が作った三〇四空に全部持ってかれてしまったから。(源田司令の政治力はすごかった・・・ということでしょうな)
零戦は6000メートルくらいで空戦性能が一番発揮されるので、1万メートル上空を飛ぶB29には太刀打ちできない・・・。
雷電は時速629キロと速く、上昇スピードも速く、20ミリ機銃4挺と斜め銃1挺を装備していて高高度性能がよかったのでB29とも戦えました。が、故障が多く、失速が早いので、乗りこなすのに苦労したようです。赤松貞明中尉のような熟練搭乗員ならば乗りこなせたのですが。
↑雷電。零戦よりも、ずんぐりむっくりしている(写真はWikiからお借りしました)
ところが、源田さんの三〇四空が、菅野大尉をはじめ、名だたる戦闘機のエースを(かなり強引に)集めたのに対し、小園さんの三〇二空は、意外にもあまりベテラン搭乗員がいなかったのでした。月光の遠藤幸男大尉、雷電の赤松貞明中尉くらいで。飛行予備学生13期出身者(大学生から海軍の飛行学生になった人達)も多く配属されていました。
それでも、首都圏の空をB29、そして掩護でついてくるP51ムスタング戦闘機の攻撃から守ろうと懸命に戦っていました。
そんな厚木航空隊が、終戦時、ポツダム宣言受け入れ拒否、徹底抗戦を唱え、反乱部隊になります。
これは小園司令が日本は神の国で、天皇は騙されている、アメリカ兵に日本の領土は踏ませぬ!と、終戦の詔に従わない!と、大本営に反逆したからです。
結局、反乱は大暴発になる前に収束し・・・
司令の小園安名大佐→反乱罪で階級はく奪、刑務所に服役。
副長の西畠喜一郎少佐 →最終的には上層部の説得に応じて反乱を納める。
飛行長の山田九七郎少佐 →責任を感じて、夫婦で服毒自殺。
多くの若手士官や下士官達 →反乱罪で刑務所に服役。その後恩赦。
となりました・・・。
小園司令が持病のマラリアが悪化し、高熱から狂乱状態になって倒れて、麻酔薬打たれて精神病院に強制入院されたので、反乱の旗振り役がいなくなったということもあります。
それに厚木航空隊の徹底抗戦に、他の海軍航空隊が賛同せず、陸軍の一部が賛同したが陸軍側もしばらくして説得されて反乱は収まり、仲間が集まらなかったということもあります。
8月15日以後、厚木航空隊がずっと抵抗を続けて厚木に降り立ったマッカーサーやアメリカ軍を攻撃していたら、厚木周辺はとんでもない戦争状態になっていたと思うし、第一、アメリカ軍が来るまえに、海軍の陸戦隊によって厚木航空隊は攻撃され、味方同士の衝突という哀しい事態になっていたはずなので、厚木航空隊の反乱が収まってくれて、本当によかったです。
けれど・・・。
厚木航空隊の司令であった小園安名大佐は、支那事変からずっと戦闘の前線で戦ってきた戦闘機搭乗員で、ラバウルにいる頃、月光に斜め銃をつけて大型爆撃機を撃墜するアイデアを成功させました。海軍兵学校卒のエリート士官のイメージとは異なり、現場第一主義で、海軍上層部のリアルな戦いも知らないペーパーネイビー(ペイパーワークばかり得意な秀才海軍中枢部をこう呼んでいたらしい)達に憤怒の感情を持っていました。
一方、とても情が厚い人で、部下思いな人だったそうです。小園司令が徹底抗戦を訴えた時、勅命に違反することになるのではないか?と懸念しつつも、ほとんどの部下達が小園大佐に従ったのは、この人を見捨てられないという気持ちが強かったのではないでしょうか。
小園司令には偏狭なところがあり、自分が考案して一時は効果をあげた斜め銃を妄信しているところがあり、冷静な現状分析をする理性が欠けているところがあり。欠点もいろいろあったけれど、それでも、この尽忠報国のカタマリのような、一人憤怒の炎のようになっている可哀そうな司令を、突き放すことができなかった・・・のではないだろうか。
小園司令は、厚木航空隊の搭乗員達に、徹底抗戦を是としない者は出ていってよろしいと言っているけれど、ほとんどの搭乗員たちが残ったそうです。
しかし、小園司令はそうとう神がかりというか、日本神道を信じ、皇室を敬い、日本が神の国だと真剣に信じている人、今考えると、ちょっとアブナイ人だったのです。が。太平洋戦争時の日本人はマジで天皇は神様ですと教育されていたわけなので、小園司令だけがアブナイ人だったわけではないかもしれません。たくさんの若者の命を特攻で散らす作戦を実行していた軍上層部こそ超アブナイ人達だったと私は思うので、アブナイ度は小園司令とどっこいどっこいだったのではないだろうか。(小園司令は特攻作戦に大反対で部下を特攻に送らなかった)
豊田穣氏著の「厚木航空隊の反乱」の中で、小園司令が終戦の命令に従わない理由として
「祖国を救うためと信じて、前線で死んで行った多くの部下たちに、何と言って詫びたらよいのか」
という小園司令の想いを表現していますが。
神の国とか天皇崇拝とかもあったでしょうが、ずっと現場で戦ってきて散っていった部下達を見てきた小園司令には、この想いが徹底抗戦の一番の理由だったのはないだろうか・・・。
小園さんは軍法会議で抗命罪で無期禁錮刑、官籍剥奪。その後恩赦で禁固10年に減刑されて、1952年に赦免。故郷の鹿児島で農業をしながら執筆をしていましたが、1960年11月25日に脳出血で亡くなりました。58歳でした。
戦前の二二六事件の首謀者達が全員死刑になっていることを思うと、終戦の詔に抗した小園司令はマジで死刑になる可能性があったので(海軍上層部の一部には死刑妥当を唱える人達もいたようですが・・)、とにかく命は奪われず、恩赦もあってよかったです・・・。
厚木空神社
そんな小園司令と厚木航空隊にゆかりのある厚木空神社を訪ねてきました。
小田急線OR相鉄線の大和駅で降りて、南口に出て左に大きな道に沿って歩いて行くと、深見歩道橋に出ます。そこにフォルクスがあって、その横にドーン!と深見神社こちらですの看板が立っていますので、場所はわかりやすいと思います。途中でも深見神社はこちらです→という看板が立っています。

大和駅から深見神社まで歩いて10分ちょっとでしたね。

深見神社の中に、厚木空神社があります。


厚木航空隊の敷地に昭和19年11月に小園司令の命により厚木空神社が建てられました。三〇二航空隊の殉職者達を祭神としました。厚木空神社には天照大神を祀るもう一つの社殿がありました。このうち、三〇二空の殉職者達を祀った社殿が遷されたのが、深見神社の中にある靖國社です。
GHQが飛行場内の厚木空神社の撤廃を命じたってことで、GHQが来る前に三〇二空の西沢良晴大尉が殉職者達を祀った社殿を、神剣と共に持ち出して、深見神社宮司に祭儀をお願いしました。西沢大尉、グッジョブ👍!

雄飛と刻まれた石碑の裏に、厚木航空隊の反乱も含めて歴史が書かれています。
三〇二空の文字が・・・。
「雄飛」の文字の横に、小園春子さんのお名前が。
春子夫人は、夫の赦免を訴え、マッカーサー司令あてに切々たる手紙を書いています。夫である小園司令の罪を問うというのなら、多くの兵達の命を奪ってのうのうと生きている海軍上層部(某海軍大臣のことを指していると思われる・・・)にも罪を問うてくれと訴えている手紙で、春子夫人の夫を思う気持ち、夫を階級はく奪して刑務所に入れた海軍中枢部の人達への憤りが文章に表れていると思います。海軍の元同僚たちが、なんどか小園さんの階級はく奪を撤回してくれるよう訴えていますが、かないませんでした。
この石碑、傷がつけられているような気もする・・・。ひっかいたような傷が縦横に走っている・・・。
誰かが故意につけたものだろうか・・・。
戦争や軍にいろいろな思いを持っているにしても、戦跡は損壊しないでほしいです。
「厚木空神社」の文字も、厚木航空隊の説明も、石碑の表ではなく、裏に刻まれているのが少し切ないです。


深見神社の狛犬の台には昭和19年の文字が。
狛犬さんも太平洋戦争の頃から鎮座していたのですねえ。
大和天満宮
厚木空神社の天照大神を祀る方の社殿は、GHQが来る前に住民が社殿を運び出して現在の大和天満宮に遷しました。
大和市文化創造拠点シリウスという立派なビルの2階のテラスにあり、今はもう、厚木空神社の名残はありません。

余談ですが。
厚木航空隊で戦闘機隊長を務めた森岡寛大尉は海軍兵学校卒70期。菅野直大尉と同期です。
菅野大尉が厚木を訪れて、森岡大尉に菅野さんの大型爆撃機必殺ワザの背面直上攻撃を教えたそうです。
森岡大尉は昭和20年1月23日の空戦で左手を負傷して、左手首を切断。もう零戦に乗れないだろうと思われた森岡大尉でしたが、特別な義手を作って零戦を再び操縦できるようになり、敵機をバシバシ墜としています。
必ず再び飛べるようになるから厚木空においてくれと頼む森岡大尉の願いを、小園司令は聞き入れてあげたのでした。そんなところからも、小園さんの情の厚さがわかります。
森岡さんは戦後公認会計士になられていて、大変頭脳明晰な方です。小園司令の欠点や、終戦の方針が変わらないであろうことはわかっていたであろうと思います。が。戦後、取材を受けた時に「政府が降伏したのであって我々が負けたのではありませんよ」という言葉を残していることからして、森岡さんには厚木航空隊の猛る血がずっと残っていたのではないかと想像しています。
ところで、厚木航空隊があった場所は、現在の厚木航空基地になっており、アメリカ軍と海上自衛隊が共同で使っています。基地公開日でないと中には入れないので、今回は遠くから飛行機を見たのみ。
そして、私が厚木に行った日は、すごーく暑かった・・・。5月とは思えないほどの日差し。
あまりにも暑くて長居はできなかったので、飛行機の撮影はできず。次回にリベンジを誓いました。
暑くて暑くて・・・思わず大和駅の近くのコメダ珈琲おかげ庵に入りました。抹茶わらび餅と抹茶フロートでひと休み。抹茶フロートのソフトクリームがすごいボリュームでした。

厚木航空隊について知るためのお勧め本
豊田穣著『出撃 海軍航空隊決戦記』(集英社文庫)の中の「本土防空戦」「厚木航空隊の反乱」

豊田氏は厚木航空隊について書くために当時の関係者に相当当たって取材したそうですが。中にはもう戦争のことは話したくないという人もいて取材は容易ではなかったそうです。でも、三〇二空の戦闘機隊長だった森岡寛大尉、雷電分隊長だった寺村純郎大尉にお話を聞くことができたそうです。
厚木航空隊の反乱が収束し、基地にあった飛行機がプロペラを外され、谷底に投げ捨てられていき、寺村大尉は自分の愛機、雷電が、谷底に捨てられる光景に「私の雷電です!」と叫び声をあげて泣いたそうです。このシーン、泣けた・・・(涙)。
「厚木航空隊の反乱」はあくまでも「小説」ですが。小園司令をはじめ当時の厚木航空隊の面々のそれぞれの想いが丁寧に描き出されていると思います。
この本絶版だと思いますが、電子書籍復刻され、Kindleで読めます。







