安倍元首相の真珠湾スピーチで言及された零戦パイロット
2016年12月28日、当時の日本首相、安倍晋三氏がハワイの真珠湾を、当時のアメリカ大統領、オバマ氏と共に訪れた時に行ったスピーチ。そのスピーチの中で言及された日本海軍零戦搭乗員がいます。それが飯田房太(いいだ ふさた)大尉(死後二階級特進で中佐)です。
飯田大尉は、1941年12月8日の真珠湾奇襲の際、蒼龍の零戦部隊を率いて出撃し、攻撃後カネオへ海軍基地格納庫に向かって突入して自爆(格納庫まで到着せず、士官宿舎付近の道路に激突したという説もあり)。飯田大尉の遺体は、カネオヘ海軍基地で戦死した18名の米海軍兵と1名の民間人とともに、アメリカ人によって基地内に埋葬されました。
戦争当時は、真珠湾攻撃の際に戦死した搭乗員、加賀の爆撃隊長、牧野三郎大尉、加賀の雷撃隊中隊長、鈴木三守大尉とともに、「真珠湾偉勲の三勇士」と、その勇敢な戦闘ぶりが讃えられました。
2016年の安倍元首相の真珠湾でのスピーチから。
「昨日、私は、カネオヘの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのを諦め、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。死者の、勇気をたたえ、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命をささげた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉(だいい)」と当時の階級を刻んであります。」

↑ハワイ・カネオヘ基地内の飯田大尉の石碑(Wikiから写真をお借りしました)。アメリカ時間だから、12月7日になっている。
突然日本に攻撃されて、戦艦がたくさん沈んで、仲間もたくさん死んで・・・そんな中で、敵である日本軍人の遺体を葬ってくれるって、アメリカ人って懐が深いというか、寛容というか・・・。
安倍元首相はスピーチの中で
「The brave respect the brave.」(勇者は勇者を敬う)
と述べて、飯田大尉を礼をもって葬ってくれたことをアメリカに感謝しています。
その飯田大尉、海軍兵学校卒六十二期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参戦。優秀な戦闘機乗りであり指揮官でした。
しかし、彼の「自爆」にはナゾが残されています。
部下に慕われた優秀な戦闘機隊指揮官
(↑写真はWikiからお借りしています)
飯田大尉は海軍兵学校卒業後、昭和11年に霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生となり、昭和12年に飛行学生教程を首席で修了しました。首席って・・・優秀すぎる・・・。
大尉に任官して、佐伯海軍航空隊、大村海軍航空隊を経て、昭和13年から空母「蒼龍」に配属されています。
昭和15年から支那事変(実質的には日中戦争)の成都攻撃に参加。華々しい敵機撃墜の成果を挙げていきます。この日中戦争の時代から、飯田大尉の戦闘機乗りとしての声望は高かったのです。部下からも慕われていました。
飯田大尉の場合、同期(私が海軍イケメンパイロットTOP3の一人だと思っている志賀淑雄)、士官の部下(藤田怡与蔵)、下士官の部下(角田和男)の3名が太平洋戦争を生き抜き、それぞれ手記の中で飯田大尉について書き残してくれているので、飯田大尉が寡黙でまじめで思慮深い優秀な戦闘機搭乗員であり指揮官であったことがわかります。
秋本実編『零戦の攻防 母艦部隊の激闘』(光人社)の藤田怡与蔵著「蒼龍零戦隊健闘す」では、分隊長、つまり上官だった飯田大尉について
「柔和ななかにも強い精神力を持ったこの分隊長は、私の好きな先輩の一人であった」
と藤田氏は書いています。
また、部下の搭乗員として務めたことがあった角田和男氏はその著書『修羅の翼』(光人社NF文庫)で
「飯田大尉こそ、私の十一年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで心服していた士官だったのである」
と書いています。
角田和男著『修羅の翼』の中で、中国の都市を零戦で成功裏に攻撃して支那方面艦隊司令長官から感状を授与されて搭乗員達が喜んでいた時、飯田大尉だけが憂かぬ顔で
「こんなことで喜んでいたのでは困るのだ。空襲で勝負をつけることはできないのだぞ。戦闘機は制空権を握って攻撃隊、艦隊の安全を確保するのが任務だ。最後の勝利は陸軍の歩兵さんに直接足で踏んでもらわなければならないのだ。(中略)今、奥地攻撃で飛行場に全弾命中などと言っているが、重慶に六十キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗等諸経費を計算すると約一千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦労の労賃は五十銭で済む。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる」
と述べていたと書かれています。
この飯田大尉の憂いは、後のソロモン戦線、ニューギニア戦線、ガダルカナル攻防戦で、現実のものとなります。
支那事変で中国軍相手に有利な空戦を展開していた昭和15年頃に、このような洞察をしていた戦闘機搭乗員は何人いただろうか。海軍兵学校卒の士官の中に何人いただろうか。
飯田大尉は、ある意味、太平洋戦争の行く末を、冷徹なほど正確に言い当てていたと言えます。
飯田大尉の自爆
1941年12月8日、日本海軍のハワイの真珠湾奇襲。
飯田大尉は空母蒼龍の戦闘機隊指揮官として参戦、しかし被弾して帰還の望みなく自爆。
ということになっています。
秋本実編『零戦の攻防 母艦部隊の激闘』(光人社)の藤田怡与蔵著「蒼龍零戦隊健闘す」
では、指揮官である飯田大尉の戦死の様子を藤田さんは次のように書いています。
「(真珠湾上空で)二撃したところで飯田機が翼をふって集合の合図をしているのが見えたので、まだ残存機が多数いたので銃撃を中止するのがおしかったが、ただちに集合して編隊を組んだ。ところが、飯田機とその二番機である厚見機から燃料が尾をひいている。(中略)分隊長はわれわれが集合したのを見ると、ふたたびカネオへの方向にむかった。上空にさしかかるころ、分隊長はわれわれに手先信号で「ワレ燃料ナシ。下に自爆す」と送ってきた。私は一瞬とまどった。分隊長が自爆したら、あとの指揮は私がとらなければならない。了解の信号を送るひまもなく、分隊長は手をあげて別れのあいさつをするや翼をひるがえして急降下していった。不意に涙がこみあげてきたが、その最後を見とどけなければならないという気持ちで胸がいっぱいになり、ジッとその行方を見守った」
攻撃に成功したものの、機に銃弾を受け、燃料漏れを起こし、帰還できる望みがなくなって、藤田さんに隊の後を託し、自爆したということです。
一方、異説がありまして。それは角田和男氏が著書『修羅の翼』で書かれているのですが。
(角田氏は真珠湾攻撃には参加していない)
「なぜ奇襲攻撃が成功しているのに、なぜ被弾するほどの反撃があったのか、蒼龍の列機は飯田大尉が一人突っ込んで行くのに、ハイ、そうですか、と真っすぐに帰ってきたのだろうか。当時の私たち搭乗員の心情では、自分の隊長が自爆すれば、列機も当然後を追って自爆すると信じていたからである。
その後蒼龍の若い艦爆操縦員が異動してきたので飯田大尉の死について問い詰めた。(中略)
「実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令が敷かれたことで、他人には話せないことですが、あまり班長が飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないのですが、分隊長は攻撃の前日列機を集めて『この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算も無い。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄ある開戦の日に自爆するが、みなはなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい』という訓示をしたそうです。予定通り引き返した時も燃料は漏れていなかったということでした」
これによると、飯田大尉は、日本の対米戦争に勝ち目はないと確信しており、日本海軍の行く末を悲観していた、自分は日本がぼろぼろになっていく姿を見たくはないから自爆する、と言っているようです。
心の中では、対米国戦争に反対していたということでしょうか。
しかし、実際、心の中では対アメリカで戦争をしても勝ち目はないと思っていた海軍兵学校卒の士官達はけっこういたようです。(戦後の手記にはそういう記述がちらほら・・・)
だから、日米開戦に絶望していたとはいえ、だから自爆を決意するってことはなかったのではないかなあと個人的には思います。
やはり、飯田大尉はエンジン漏れかどうかはわからないですが、機体が損傷を受け帰還が難しいとなり、せめて地上基地に損害を与えて自爆しようと格納庫に向けて突っ込んだのではないだろうか・・・と想像します。
秋本実編『零戦の栄光 大空の覇者』(光人社)に収録されている志賀淑雄著(加賀戦闘機隊だった)「制空隊から見た真珠湾攻撃」の中では、佐伯基地で訓練している時、昭和16年10月に源田実航空参謀から真珠湾奇襲計画を告げられて、志賀淑雄大尉(当時)は驚き、親友の飯田大尉に
「貴様どう思う?」と聞いてみると
「どうもこうも、すでに決められたことさ」
と答えたそうです。
飯田大尉は、諦観しているような感じですよね。
対米戦争は「すでに決められたこと」。その「すでに決められたこと」の中で、自分のすべきことをするしか道はない。そう、飯田大尉は心を決めていたのではないかと想像します。
飯田大尉が心配したように、太平洋戦争は経過とともに、日本は領地を失い、陸軍・海軍の連携は拙いもので、戦費も資源も枯渇して、日本は悲惨な状態で敗戦します。
しかし、そこから日本は復興しましたよ、立ち直りましたよということを、あの世で眉をしかめて戦況を見ていたであろう飯田大尉に教えてあげたい気がします。
飯田房太大尉のことを知るためのお勧めの本

秋本実編『零戦の攻防 母艦部隊の激闘』(光人社)の藤田怡与蔵著「蒼龍零戦隊健闘す」
飯田大尉の戦闘機隊の真珠湾攻撃の様子が描かれています。

角田和男著『修羅の翼』(光人社NF文庫)
角田氏のこの本は、飯田大尉のことだけでなく、終戦までの零戦パイロット達の戦いぶり、暮らしぶり、苦悩ぶり、そして、特攻隊員たちの生き様、死に様がリアルに描かれていて、感動の一冊です。その時、その場を経験した人でないと書けない話がたくさん含まれています。

