海兵同期、関大尉の神風特攻を知る・・・


昭和19年(1944年)10月、フィリピンのレイテ沖海戦で特攻隊による攻撃が始まったのですが。それまでの戦いで航空機も搭乗員(特に熟練のベテランパイロット達)も大きく減らしてしまった日本海軍としては、、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるために、アメリカ空母から1週間くらい艦載機が飛び立てないようにする必要があり、そのために当時第一航空艦隊司令長官であった大西瀧治郎中将が「神風特別攻撃隊」、いわゆる特攻を決定しました。
 

フィリピンをアメリカに占領されると、日本への石油の輸送ができなくなり、石油がなくなれば日本の敗戦決定ということになる。だから「どんな手をつかっても」、アメリカのフィリピン侵攻を防がねばならないと軍上層部は考えたようです。それで捷一号作戦で、栗田艦隊、小沢艦隊、西村艦隊、志摩艦隊、つまり残っていた日本海軍の艦隊ほぼすべてを動員して、アメリカに侵攻を防ぐのだ、ということになり。連合艦隊が突っ込むなら、フィリピンの基地の航空部隊も突っ込まざるをえない、という雰囲気であったそうです。
 

菅野さんも特攻が行われるなら自分が一番で行きたいと上司に志願していたと言われています。ところが、レイテ沖海戦勃発前に、菅野さんに、二〇一空司令の山本栄司令から日本に帰国して零戦を受領してきなさいという命令が下ります。
この命令は、山本司令や玉井浅一副長が、菅野さんをかわいがっていたので、特攻隊の指揮官に指名するのに躊躇したゆえだ、腕がよい零戦の士官パイロットを一度きりの特攻によって失うのは惜しいと思ったからだ、という噂が二〇一空のパイロット達の間で広まっていたそうです。(久山忍著『蒼空の航跡』光人社NF文庫)
この話は、他の本にも出てくるので、事実かどうかは確かめようがないけれど、当時の二〇一空ではそう思われていたということなのだろうと思います。
確かに、菅野さんのこのタイミングでの横須賀行きは、ん?というタイミングです。
 

しかし、もしこれが本当なら、菅野さんの代わりに指名されたことになる関大尉はたまったものではないですよね・・・。関大尉は零戦搭乗員ではないのです。艦爆機の搭乗員です。艦爆機ならばはじめから特攻ありきにしなくても、まずは空母に爆弾落とすことを目指して攻撃してもよかったはず・・・と素人目には思えます。
 

関行男大尉率いる敷島隊はアメリカ艦隊の護衛空母一隻を撃沈し、三隻に損傷を与えたのですが。正確な被害は日本側は戦後把握したのであって、当時は正規空母を撃沈したと思い込み、特攻作戦の威力を過大評価することになります。そして、この後、「特別攻撃」は全然「特別」ではなくなっていく・・・。
そして、レイテ沖海戦は、現実には、あの、「栗田ターン」で、もしかしてワンチャンあったかもしれない戦機を逃し、日本の大敗北に終わります。

菅野さんは自分の海兵同期の関大尉が特攻したことを後から知り、かなりショックを受けたようです。菅野さんは自分も特攻に行くべきだと考え、当時の中島正飛行長に訴えたけれど、「待て」という指示だったと言われています。(豊田譲著『新・蒼空の器』)
その後、菅野さんはフィリピンのマバラカットを拠点に、特攻機の掩護、戦果確認任務につきます。突っ込んでいく特攻隊員も辛かったでしょうが、仲間が戦艦に突っ込んでいく様子を見続ける零戦掩護隊員も辛かったであろうと察します・・・。

紫電改部隊、三四三空へ
 

レイテ沖海戦が終わり、アメリカ軍の機動部隊がフィリピンから九州の南に移動していくタイミングで、菅野さんは内地の三四三空へ異動が命じられます。
この三四三空が、源田実大佐が作った紫電改部隊です。はじめ松山基地に設置されました。
 

(↑紫電改。Wikiよりお借りしました)

 

紫電改は、零戦の後継戦闘機として作られ、昭和19年も押し迫ったタイミングでやっと実戦導入されました。
零戦は素晴らしい戦闘機でしたが、グラマンF6Fヘルキャットという最新鋭のアメリカ戦闘機が登場すると、対等に戦うことが難しくなってきました。

紫電改は川西航空機設計で、馬力が零戦の約2倍あり、最速スピードはヘルキャットとほぼ同じ、そして自動空戦フラップが付いていました。速度検知によって自動的に妥当なフラップ下げ角を設定する装置で、これにより最適な揚力をキープすることができ、空戦に有利でした。旋回しても失速することがなく、小回りに旋回することが可能で敵機の後ろにつくことができたからです。熟練のパイロットであれば空戦中でも主導でフラップを動かして最適な揚力になるよう調整することが可能でしたが、まだ練度が低いパイロットは戦いながらフラップを動かすのは容易ではなく、自動空戦フラップでベテランパイロットと若手パイロットとの差を埋めることができました。加えて、紫電改の無線はハイクオリティで紫電改同士、あるいは陸上基地との通信がスムーズにできました。
 

源田大佐は、彩雲を使った偵察隊も編成しました。源田大佐の作った三四三空は、剣部隊と呼ばれ、九州地方の制空権を取り戻して戦局の挽回を狙おうと、腕利きのパイロット達を各基地から集めました。菅野さんもその一人だったわけです。
菅野さんは紫電改にも後部胴体に黄色い二本戦を引かせ、イエローファイター健在としたのです。
菅野さんは三四三空で、海軍兵学校の二期先輩の鴛淵孝大尉と再会します。鴛淵大尉もフィリピンでアメリカ軍相手に奮闘していました。
鴛淵大尉は、菅野さんとは全然別タイプで、知的で紳士的、長身でスマート、まさに海軍士官というタイプです。この鴛淵大尉を菅野さんは兄のように慕ったそうです。思うに、菅野さん、あちこちの航空隊で自分より少し年上の海兵卒の士官パイロットの大尉にごろにゃんとなつき、尊敬する傾向がありますね。お兄ちゃんっ子だったことが影響しているのでしょうか。
すごーく年上の少佐~大佐クラスの士官に対しては、反抗心や批判が前面に出ちゃって、バカヤロー、コノヤローになっちゃうのですが(笑)。

空の新選組
 

紫電改部隊は、鴛淵孝大尉が先任隊長(一番階級が上)で、鴛淵大尉(当時25歳)率いる七○一(通称が維新隊)、林喜重大尉(当時24歳)率いる四〇七(通称天誅組)、菅野さん(当時23歳)率いる三〇一(通称新選組)、橋本敏男大尉が率いる偵察隊(通称奇兵隊)から成っていました。太平洋戦争末期に新選組が復活するとは思わんかったわ~。新選組ファンの私としては嬉しい限りですが。
 

源田実司令、志賀淑雄飛行長、中島正副長(←ただし、このヒトはイロイロ批判の多い方で、嫌われ者なので・・・後に紫電改部隊から追い出され・・・いえ、転出になり、相生高秀副長に変わっています)と、陣容を整え、紫電改部隊のアメリカ軍との戦が始まります。
 

そして、紫電改部隊は、強かった!
源田司令が、無線電話を整え、偵察隊の強化し、近代的な戦闘を展開したということもあるし、編隊戦闘を徹底したということもあるし、鴛淵大尉、林大尉、菅野さんという歴戦の指揮官がいたということもあるし、傘下に空戦の神様、杉田正一をはじめとした名だたる零戦搭乗員達が揃っていたということもあるでしょう。(ただし、三四三空の搭乗員全員がベテランというわけではなく、けっこう若輩もいたので、訓練をばしばししていた)。
日本本土を空爆に来るアメリカのB29などの爆撃機、それを掩護する戦闘機グラマンF6Fヘルキャットなどの戦闘機と空戦し墜としていきます。

昭和20年3月19日の初陣ではアメリカの戦闘機中心に60機以上を撃墜し、負け続きな上にB29で本土が焼け野原にされている中、この久しぶりの勝利に日本軍は喜び、連合艦隊司令長官(その時は豊田副武大将)から感状が送られます。
 

もう零戦なんて怖くないぞと日本の空をなめ切って飛んでいたアメリカ軍も、突然なんかすごいヤツらキターっていうので、びっくりし、九州から松山の上空を飛ぶ時は気をつけないと危ないぞ、避けた方がいいぞと、警戒します。
ちなみにアメリカ軍が紫電改につけたニックネームは「ジョージ」。ジョージ、つええぞ~それに背面から急降下でぶっこんでくるあのクレイジーなイエローファイターもおる~~(-_-;)と、アメリカ軍のパイロットたちはざわざわします。
三四三空は5カ月間の戦闘で約170の敵機を撃墜しました。(ただし、味方も74機やられている)
日本海軍の航空隊の最後にきらめきが、紫電改部隊三四三空だったといえるでしょう。

散っていく仲間達
 

その後も紫電改部隊は、アメリカ軍の爆撃機た戦闘機と勇猛に戦っていきます。
源田司令ははじめは爆撃機の掩護についている戦闘機撃墜に集中していましたが、そのうちばかすか日本に爆弾落とすB29のような爆撃機も撃墜しなければ、となり、そのうち、鹿屋基地に移ってからは沖縄方面に特攻する特攻機を掩護することもしないといけなくなり。
紫電改部隊にも、戦死者、被撃墜数が増えてきて、おまけに紫電改作っている川西飛行機の工場がアメリカ軍による空襲にやられて、新たに紫電改が追加できない状態になります。
部品交換もままならない・・・。最後の方では、稼働できる紫電改数は20機足らずになっていたそうです。
 

そして・・・皆に尊敬されていた鴛淵孝大尉が戦死し、林大尉も戦死。代わりの隊長は補充されますが、三四三空開設以来の隊長三人のうち、生き残っているのは菅野さんだけという状態になりました。
おまけに、菅野さんと仲がよかった、そして信頼していた部下の杉田正一さんも戦死してしまいます。杉田さんの代わりに菅野さんの隊の二番機を務めた「空の宮本武蔵」と呼ばれた武藤金義さんも戦死してしまいます。
戦闘機搭乗員の宿命とはいえ、次第に仲間の命が消えていき、菅野さんは、自分もそのうち散華すると覚悟は決めていたであろうと思います。
自分の死の順番が来るまでは、おもいっきり戦って、思う存分暴れてやる。自分の命が散る時までは、おもいっきり。
菅野さんは、そう思っていただろうと思います。

菅野大尉の最期
 

菅野さんの最期はよくわかっておらず。

屋久島近くの海上でアメリカの戦闘機と戦っているうちに、乗っていた紫電改の機銃筒が爆発し、翼に穴が開いてしまって、空戦から離れて低空を飛んでいたことはわかっているのですが、その後の消息がわからない。

部下の三上光雄(旧姓堀)さんが心配して菅野機に付き添ったのですが、「俺のことは構うな、戦闘に戻れ」と菅野大尉に怒られて、菅野機を離れ、空戦の後、「空戦ヤメ、集マレ」という菅野大尉からの無線電話を聞いて、集合場所の空に行ったけれど、菅野大尉の姿はなかったのです。「菅野1番!菅野1番!」と三上さんが呼びかけたけれど反応なし。海上に何の痕跡もなし。「未帰還」となり、戦死したとされたのでした。
 

三上さんは戦争を生き抜いたので、菅野さんの最期の様子についてかなり詳細な手記を書いてくれているのですが(三上光雄著「さらば菅野大尉」『零戦、かく戦えり!搭乗員たちの証言集』(文春文庫))、「空戦ヤメ、集マレ」という菅野さんの無線電話の声を聞いた後、菅野さんがどうなったのかわからない。集合場所の空に行っても、菅野さんの紫電改はない。屋久島の海岸沿いに探してみたけど、何もみつからない。機体が空中分解したか、敵戦闘機に撃墜されたか、片方の翼に穴が開いていたので揚力を失い海中に突っ込んだのか・・・。
菅野さんは、この世界から、忽然と姿を消してしまいました。

終戦間近の昭和20年8月1日の出来事でした。
死後二階級特進で海軍中佐。享年24歳。

菅野さんの最期について、ヒントになる資料としては、太平洋戦争末期の紫電改の奮闘について膨大な調査に基づき書かれた『源田の剣(つるぎ) Genda’s Blade』(高木晃治氏とヘンリー境田氏の共著)。副題が「米軍が見た「紫電改」戦闘機隊 全記録」ですから、米国側の戦闘記録を丁寧に調査し、米国軍が見た紫電改部隊の活躍を描き出したノンフィクションです。。『源田の剣』によると、当時菅野大尉の集団と戦ったアメリカのパイロット側や戦闘記録を調査し、菅野大尉機を撃墜したと思われるアメリカ側の戦闘記録がないことから、菅野機がアメリカ側に撃墜されたのではなく、機体の故障か事故により墜落したと推察されるとしています。

菅野さんの最期については、小説ですが、豊田譲著『新・蒼空の器』の「春の嵐」の最後がすごく菅野さんっぽい気がします。菅野さんの未帰還を知って、志賀飛行長が空を見上げながら語るシーンです。


志賀は空に浮いている雲を眺めていた。
「おーい」と呼びかけたいような気がした。
撃墜王菅野は決して死にはしない。少なくとも彼は空戦でアメリカのどの機にもひけをとったことはない。「無敵の撃墜王」の名は彼のために許されてよいであろう。
志賀はその雲が菅野であるような気がしてならなかった。
その雲が地上に降りてきて、
「菅野大尉、撃墜三機」と白い歯を剝きながら叫びそうな気がしていたのである。


 

じ~んとくる終わり方です。


可愛がっていた菅野大尉の未帰還に、強気の源田大佐もさすがにがっくりきたようです。
源田さんは戦後航空自衛隊を経て、参議院議員になりました。一線から身を引いた後自宅がある神奈川県の厚木市で暮らしていましたが、病気になってからは松山へ転居して療養しそこで亡くなっています。松山は紫電改部隊が最初になった場所です。三四三空が最も輝いていた場所です。源田さんは菅野大尉や鴛淵大尉や林大尉のことを偲びながら、残された時間を過ごしていたのでしょうか。

菅野大尉を描いた映画
菅野大尉そのものを描いた映画は、私が知る限りないと思いますが、三四三空の戦闘について描いた映画があります。

「太平洋の翼」(東宝、1963年)。源田実司令と思われる人物を三船敏郎さんが演じています。
それなりに面白い映画でしたが、映画の前半部分は紫電改部隊の活躍ではなく、隊長になる搭乗員達を各戦地からどうやって日本まで連れてくるかというストーリーで占められていて、空戦シーンが少ないので、ちょっと不満。アマゾンプライムビデオの東宝チャンネルで見れます。


菅野大尉をもっと知るためにお勧めの本

碇義朗著『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長 菅野直の生涯』 (光人社NF文庫)
綿密な取材に基づき、菅野さんの生涯を描いたノンフィクション。数々のレジェンド級エピソードが盛沢山。そして、菅野さんに恋人はいたのだろうか??という興味も満たされます(笑)。


豊田譲著『新・蒼空の器』の「春の嵐」(光人社NF文庫)
フィクション要素が入るけれど、菅野さんのアンビバレントな魅力と破天荒ぶりがよく描かれていてお勧めです。

ただ、この本現在絶版かも。私は古本屋さんで手に入れました。
豊田氏は、海兵同期の鴛淵孝大尉を描いた『蒼空の器』(光人社NF文庫)の中でも菅野大尉をたくさん描いていてこちらもお勧めです。『蒼空の器』の冒頭、前日基地の外で飲んでどうも芸者とお泊りしていたらしい菅野さんが自転車で駆けつけてきて集合時間にギリギリ間に合うっていうシーンがあるのですが、めちゃくちゃ面白いです。