皆様お久しぶりです。
こっそり元気してますよー!
と言いたいところですが、実際はここしばらく、ネガティブなサイクルを彷徨ってます。仕事が思うように行かないというのが一番の原因ですが、それ以外にも色々ありまして。
しばらくタブーを掘るのもサボり気味ですが、実際にかなりサボってます。事実、最近は学芸書をあまり読んでいません。ニュースも新聞も見ないし、ネットサーフィンしない日も多くなりました。消費税増税が株価を下げるとか、政治資金の定義は何だとか、ビットコインは夢のお金だとか、墜落事故が陰謀じゃないかとか、もう全部どーでもいいよって心境です。
てなことで、たまにはアメブロに愚痴でもこぼそうかなと。
さて、既に当ブログをご覧いただいている方には、私が相当に理屈っぽい性格だってことは、もう言わずもがなですね。でもそんな私でも、時には感情に任せるがまま、抽象的なポエムだって書きたくなるんですよ。他人のポエムなんて絶対に読みませんけどね。(おい)
でも恥ずかしいから、コメント不可。
抽象的なコメントを書かれても返しようがないもん。
あと、ボケきれてない大喜利もついでに削除削除。
そして今夜はいつも以上に空気とか読みませんし、カッコつけたりも無し。
しかもちょっと社会主義哲学チック。
でも、前振りも本文も長いのは、いつも通り。(おい)
本題です。
どこの職場にも必ず一人はいる、使えないヤツ。
毎日仕事をしていると、数年に一度は、とんでもないくらい仕事のできないヤツに出会うこともある。
彼の様子を見ていると、少し面白い。
周囲の人は彼を気遣い、やさしく声を掛けては、やさしく指導をする。
でも何度教えても、教えた通りにできないと、その指導は続かない。
しばらくすると、やがて匙(さじ)を投げる。
指導を諦めて去る。
無視する。
場合によっては、怒鳴りつけて感情をぶつける人もいる。
しかしそうなると、次の誰かがまた、可哀そうだからと同情的に声をかけ指導をする。
そして匙を投げる。
この繰り返し。
そういう様子を傍目に見ながら、こう思う。
「最後まで面倒見ないなら、最初から手を出さなきゃ良いのに。」
教育には時間が掛かる。
だから教育する側には覚悟がいる。
その覚悟の無い人ほど、職場では真っ先にやさしく声を掛ける。
そして真っ先に匙を投げる。
何なんだろう。
しかし恐らく、彼がそうした人間関係をずっと繰り返したことだけは、想像に容易い。
例えば、「ゆとり世代」と揶揄される道を、まさに全力で歩んできたような若者と対峙した時、彼らを「怠けている」と感じるか、「迷っている」と感じるか。その価値観によって、彼らとの付き合い方は180度変わる。私個人は、前者と感じた人には、指導や教育の資格は無いと思う。
使えない社員とどう向き合うか。
その答えを探そうと、ある日、本を買う。
本を読む。読む。買う。読む。読む。
ドラッガーを読んで、(何度読んでも)感動はするが、そこに答えは書かれていない。
ドラッガーはマネジメントの基本概念を証明したが、具体的手法を確立した訳ではない。
今度はコーチングのテキストを実践するが、続かない。
というか、コーチングを理解するほどに、それが自分個人でなく組織の問題だと気付くから。
独りよがりの限界に気付き、また無力感に襲われる。
またある日には、一流経営者と呼ばれる人の著作や自伝を読む。
第三者が書いた提灯本も読む。読む。
でも全く共感できない。
そこには、著者の主観や価値観、経験談ばかりが書かれている。
客観検証された理論のひとつも書かれていない。て学者じゃないからね。
でも、それが鼻につく。
満ち満ち溢れる自信が、毒々しい過信にしか見えない。
「成功したら誰にでも書けること」と普通に思ってしまう。
確かに、誰もが普通に知っている。
イチローも本田圭祐も羽生結弦も、超一流のアスリートであることを。
ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブスもザッカーバーグも、イノベーションの塊であることを。
しかし、果たして彼らは本当に成功者と言えるのだろうか。
世界の売れないプロ野球選手の中には、イチローよりも理論家で努力家だっているはずだ。
ザッカーバーグよりも寝ずに働き、毎日アイデアを生み続けるビジネスマンだっているはずだ。
もしも、本田圭祐の身長があと10cm低ければ、彼はプロサッカー選手になっただろうか?
体が期待通りに成長するかどうかは、本人の努力次第でどうにかできる訳では無い。
もしも、イチローが普通のビジネスマンならば、彼の持つ瞬間視力や動体視力は、彼のキャリアにおいて一体全体どう役立つと言うのだろうか?
才能の有無とは、その時代、その環境が求める期待に、応えられるかどうかである。
才能とは、それを生来的に備えているだけでは、「才能」とは呼ばれない。
たまたま、偶然、その能力を必要とする社会が、時代がそこに存在することがまず前提。
しかし社会も時代も、個人が左右できるものではない。
ならば彼らが社会的に評価され、同僚の100倍、同業者の1万倍の報酬を得るだけの正当性はどこにあるのだろうか。
私は経験的に知っている。
成功者が成功者たり得る根拠の多くが、偶然によって支えられているという事実を。
その成功は自身の努力によってのみ、もたらされた筈が無いことを。
それは、生まれた時代背景や国家地域、生来的に運良く得られた能力、育った社会環境などによって支えられた、偶然と偶然との重なり合いが生み出した結果に過ぎない。
ならば、「私のように働けば成功する」とか、「ビジネスマンはかく有るべき」とか、「仕事の○カ条」という弁は、ひどく根拠に乏しい。
もしも、世界の識字率が10分の1だったら、ビル・ゲイツは成功者どころか、単なるオタクに過ぎない筈だから。
世の中には、色々な個性の持ち主がいる。
それぞれが異なる個性を持ち、異なる才能と異なる欠点を持っている。
だから面白い。
だから社会も文化もより豊かになる。
「コミュニケーションができない人は当社には必要ありません」という個性もへったくれも無い弁は、一見正論ではあるものの、また同時にひとつの疑念を生じさせる。
「それは、そもそもあなたの組織自体がコミュニケーション能力不足だからでは?」
個人の欠点を補完し合う意思を捨てた社会は、やさしくない。
誰もが凸凹であることを許容できない人は、知性や愛情に乏しく、傲り高ぶっている人にしか見えない。
社会は、まるでジグソーパズルのようだから。
恐らく世の中は、こんな形の人や、
こんな形の大多数で成り立っている。
でも、こういう人も時にはいる。
と言うか、時代や価値観、社会の有り様がそう見せる。
であるならば、同じくこんな形の人が、そのバランスを取れば良いと思う。
そういう人が集まって組み合わさって、社会は成り立っている。
てあれ?ビル・ゲイツ叩いてたのに、Officeになってるし。(おい)
でも、ある意味これは正しいと思う。
じゃあ、こんなのはどうだろう?
ひょっとすると、こういう人もいるのかも知れない。
というか、こういう人がいて欲しいと願うのが、人の常かも知れない。
社会の均衡を期待し、永遠の平和の訪れを願うあまりに。
でも、恐らくは居なくて大丈夫とも思う。
私達は欠点だらけで良い。社会全体も欠点だらけで、未完成で良い。
だからこそ、互いに寄り添って生きてける気がするから。
てあ、エロい話じゃないですよ?(おい)
今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。
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