以前、電車内のマナーの問題を少し取り上げました。
参考:過去記事「姥捨て山という世代間闘争」
平日昼間の電車に乗ると相変わらず年配者のマナーの悪さが目立ちますが、通勤ラッシュ時間帯にはまた違ったマナーの問題が目につきます。
【人を押し退けてゲーム】
まずとても驚くのが、携帯を握りしめる人の多さですね。ギュウギュウ詰めの車内に立つ場合、一定の節度を備えている人ならば読書や携帯の操作は控えるものです。しかし、かなり強引に胸元のスペースを確保して、スマホに熱中する若い世代は少なくありません。よほど緊急に迫られているのかと思いきや、画面を覗き込めばゲームに熱中しているだけという有様。スーツを着たいい大人同士が、そんなことを叱ったり叱られたりと、もう滑稽としか言いようがありません。
最近、東京近郊の鉄道各社が路線全域の無線整備を進めていますが、一体何の為でしょう。緊急の電話対応が必要なら一旦電車を降りれば良いし、私もしばしば途中下車してホームでPCを開くことがあります。新幹線や特急はともかく、LINEでの雑談やゲームユーザーのために無線を整備する社会的意義がよく分かりません。一方では、それを迷惑に感じる層もいるので、小田急はロマンスカー内の無線整備は見送りました。
参考:日経新聞電子版(2013/3/21)「地下鉄にアンテナ、列車に無線LAN スマホ対応急ぐ鉄道各社 」
【駅構内で多発する事故】
それからもうひとつ問題なのが、駆け込み乗車をする人です。「お止めください」とこれだけアナウンスをされているにもかかわらず、なぜ減らないのでしょう。乗車時も問題ですが、階段やエスカレーターを走る人に至っては、もうマナーの領域を超えた問題です。衝突や転倒、ホーム転落などの物理的な危険性が生じるのですから、一種の反社会的行動と呼んでも良いかも知れません。つい先日もこんなニュースが飛び込んできました。
(カナロコ(2013年4月18日記事)「男性転倒巻き添えで重体の女性死亡、JR藤沢駅階段/神奈川」より引用)
ホームに下りる階段で転んだ男性会社員(62)=同市在住=とぶつかって、意識不明の重体となっていた女性が18日、運ばれた病院で死亡した。
(中略)
現場は小田急江ノ島線の乗り換え口とJR東海道線上りホームとをつなぐ階段。17日午後0時50分ごろ、男性がホームから15段ほど上から転げ落ち、下にいた女性にぶつかった。女性は頭などを強く打ち病院へ救急搬送されていた。男性にけがはなく「急いでいて転んでしまった」と話しているという。
(引用ここまで)
同じくカナロコの続報では、この男性会社員は重過失致死の疑いで書類送検されたそうです。
参考:カナロコ(2013年6月4日続報)「JR藤沢駅転倒事故 重過失致死容疑で男性を書類送検」
【駆け込み衝突は重過失】
一見この出来事は偶発的な事故と思ってしまいそうですが、とんでもありません。上記続報によれば、この加害者は「重過失致死」の嫌疑が掛かっています。
「過失」とは、責任を果たさなかったということです。過去の判例によれば、公共の場では他人にぶつからないよう通行する注意義務があります。とりわけ駅構内やショッピングセンター内などの人込みでは、当然その義務はより大きくなります。この加害者はその義務を怠ったどころか、駅階段を駆け下り転倒してぶつかった訳ですから、重大な過失があったということになります。
ややこしいので、少し整理しましょう。
ぶつかった双方が十分に注意を払っていれば衝突は起こり得ませんから、実際には双方に同等の過失がある場合がほとんどです。つまり偶発的事故であり、損害が生じた場合の責任分担は双方の折半となります。出会い頭の交通事故と同じですね。
それに対して、一方が「ながら歩き」をしていたなどの場合は明らかに過失ですから、物損があれば民事賠償責任が生じ、怪我をさせれば過失傷害、死亡させれば過失致死となります。
つまり、駅構内での駆け込み衝突ともなれば重過失障害罪(5年以下の懲役または禁固、50万円以下の罰金)や、重過失致死罪(5年以下の懲役または禁固、100万円以下の罰金)を問われる可能性も十分にあるわけです。
【幸福量保存の法則】
電車内で携帯を使いたいのは自身の都合です。電車に乗り遅れそうなのも自身の責任であり、これらは周囲の人には全く関係が無いことです。個人の問題を社会が分担する精神も時には必要ですが、それにしてもこの問題はあまりに利己的で稚拙です。
ところで皆さんは、タイトルにある「幸福量保存の法則」というものを聞いたことがありますか。「社会全体の幸福には総量があって、それは不幸の総量と等価である」とする考え方です。
その由来は定かではありません。アマゾンで検索すると、あまり関係無さそうな香山リカの著書がヒットするだけです。学術的な幸福論に裏付けられている訳でも、特定の宗教の教義という訳でも無さそうです。
冷静に考えれば、幸福も不幸も人の印象ですから、それを数量として計ることはできません。「隣の芝生」を妬んでも、妬まれた側が幸せになるわけでもないので、この論理が成立しないことは直ぐに解ります。にもかかわらず、なぜかこの価値観を持っている人が少なくないので、一定の普遍性も有りそうです。日本人独特のものかも知れませんが、それもわかりません。興味深いですね。
参考:Google検索結果「幸福量保存の法則」
そしてこれは「損得保存の法則」と置き換えることができます。社会全体の損得の総量が等価だとすれば、自分が得をするためには他の誰かが損をしなければなりません。つまり、道徳を守らない利己的な心情も上手く説明できてしまいます。
もしこれが仮に人類の共通観念だとすれば、道徳の本質とは「損を厭わないこと」なのかも知れません。
【マナーの本質】
こういう話をしていると、議論はいずれ必ず古代哲学に行きつくのですが、とても難解ですね。しかし、道徳の一部としての「マナー」ならば難しいテーマではありません。
以前、JALから独立起業し国鉄民営化などを手掛けた伝説の研修講師の方と、一緒に仕事をしたことがあります。彼女いわく、マナーとは「思いやり」や「おもてなし」のことで、目配り・気配り・心配りの技術の総称であるが、その本質は「一期一会」にあるとのこと。つまり日本人のマナーのルーツは「禅」の精神にあり、相手に敬意を尽くすことなのだそうです。
参考:Wikipedia記事「一期一会」
「禅」とは大乗仏教の一宗派で、その精神は茶道や懐石料理などにも活かされています。禅宗が広まった鎌倉時代から室町時代にかけては、武家社会が確立された戦乱の時代でもありました。今日会った相手に明日会える保証はどこにもない。だからこそ、今日の出会いを大切にし、その一瞬に相手への最高の敬意を尽くそうと考えるわけです。
参考:禅 ー入門ー
彼女はその指導においても、身だしなみから立ち居振る舞い、その一挙手一投足の全てが、他者を気遣う精神であると教えていました。また、目指すは皇后美智子陛下だとも言っていました。仏教と神道が混ざってややこしいですが、言わんとしていることはわかります。
最後に余談ですが、以前は私自身も「幸福量保存の法則」の考え方に近かったのですが、最近は少し変わりました。不幸の総量の方が、幸福の総量よりも多いと思っています。また、一期一会の精神は「自己犠牲」と解釈していて、自己犠牲の実践は不幸を減らすことだと思っています。
皆さんはどう思うでしょうか。
今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。
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