出逢いは突然、別れは必然② | mAmIのありったけ嫵露颶

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ことごとく中途半端。ですが思いは成り立つコトを得意としていません。これは私のありったけです。キレイに見えるモノもすべては不純物の集合体でしょ?矛盾ばかりの世界、誰もが救われるようになってます。自分の正義を信じましょ。

怒る
って素敵なコトだと思える?

怒り方によって?

怒っていいよ

って言われて怒れる人は置いといて

怒りって
信念とか希望とか欲とか
守りたいモノへの
愛だと思うんだ。


誰かが鎮めたら
おわるような怒りなら
問題ないケド

おさまらない怒りは
自分で癒すしか方法がない。


『だからひとりで頑張ってくれたまえ!』

ってコトじゃなくて。


『無いコトにしてくれたまえ!』

ってコトでもない。


たとえ誰に言ったって
ぶつけたって
自分で納得して消化しない限り
一生ついて回るから

当たれる相手がいるなら
当たり散らして
自分がボロボロに崩れてでも
それでも壊れずにある
守りたい思いに気付いて
その思いに愛ってキレイな名前を付けようよ
って言いたい。


怒りスイッチ押したい願望は
一生なくならないんだろうなぁ〜って思う。

だって、
私の場合
怒りスイッチ押されたら
本当に守ってるモノがわかるから。


なんで私
こんなにムキになってるんだろ???


あぁ、
コレこんなに好きなのかぁ

あぁ、
コレ大切に大事にしてきたんだなぁ

あぁ、
そういうコトかぁ

って なる。



見つけて理解して昇華するのと

思いをなかったコトにするのでは

雲泥の差なんだと気付いた。

とゆーのも

それが愛じゃないって
どうしてわかるの?
なんでそれが愛じゃないって
言えるの?
誰にだって
守りたい愛はあるでしょ。

そんな鬩ぎセメギ愛にあってた。

愛か
愛じゃないかとかではなく、

キレイなお金と
汚いお金の イメージ が
人それぞれあるように、

愛にもイメージ的に
キレイな愛と
汚い愛がある。

それが愛じゃないから
受け入れられないんじゃなくて

それが愛だから
受け入れなきゃダメなワケでもない。

キレイすぎてイヤだったり
汚すぎてイヤだったりする。

それは自分の愛に対しても
相手の愛に対しても
好きな部分と嫌いな部分
受け入れられない部分
ってあったりする。

そのイメージは
ちょっとや そっとで
紙一重に出来るのかもしれない。

でもそれって、
イメージがある
って認識されてるコトが条件。

その認識さえ拒否され続けている思いは
存在すら認めてもらえずにいる。

私は
感情の果て
思いの果ての
涙に辿り着くたびに
思い知る。

言葉にできなくて
自分でも自覚がないモノは
怒りでしか開放できないんだと……


誰かに
なぐさめてほしいワケでも
なだめてほしいワケでも
怒りたくて怒ってるワケでもない。


その思いは 怒り にしか
かえられないんだ。

怒り にしか守れないぐらいの
繊細な思いなんだ。


そんな思いを
受け入れられずに居たのは
他の誰でもない
自分自身だった。


だって、
その思いを自分自身でわかってて
理解してて納得いってるなら
その時点で消化してるから
怒りになんてなるハズない。


誰かに認められなきゃ安心できないほど
不安定で、
自分で認められないほどの思いを
抱えてる自分自身を
一番に受け入れたいハズなのに
うまくできなくて葛藤してる。


怒りをぶつけたくなるほどの
その相手は
自分が頑なに握って
話ハナさない思いを
肯定させる為に現れた
ヒーローかもしれない……

うわべ は
チャッカマンに見えるかもしれないケド

自分自身の思いを
わからせてくれる相手

誰に何を言われようと
私はこの思いを守りたいんだ
って
自分自身の強い思いに気付かせてくれて、
自覚させてくれる人。


だから怒るって文字に
心があるんだなぁ〜って
勝手に納得してしまった。


怒りの矛先が向いているのは
その相手のように見えるケド

ホントはずっと自分自身に向いてる。

相手に
傷を負わされたように見えるケド

ホントはずっと
自分が自分を傷付けてるコトに
気付いていなかっただけ。

その人のセイにしたらイイよ
それで楽になってイイよ
喜怒哀楽って
そういうコトかな?


自分自身を傷付けてまで
守りたいモノがあって

自虐で守ってるモノが
誰にだってある


私は
誰かが本気で守ってるモノが
欲しくなる。


それを手に入れるコトなんて
絶対できないのにね……


奏でる曲は心の一部
喜怒哀楽が
最終的に辿り着いた優しさ

その優しさのために
捨てた喜怒哀楽は
贈られた曲で癒される。


喜びも
怒りも
哀しみも
楽にならなかった記憶も
楽になった記憶も
自分の真心で優しさに変わる。

だけど、

捨てたくなるほどの
思いの中に隠れてた
自虐で守ってたモノは
一体どこ?

私が欲しいのは
それじゃない

って
違和感を感じるのは

私だけがずっと
思いを見つけられずに
昇華できずに
テバナシ出来ずに
その場から立ち去れずに居るから。

曲だって見つかるハズない。

体調だって回復するワケない。


私の場合、
誰かとの生死の別れは
その人とは別の誰かとの
現実的な別れを示してる。

おばあちゃんの時も
伯父さんの時も
愛犬の時も
父の時も
おじいちゃんの時も

誰かとの縁が切れた。


おば様曰く、
お互いのエネルギーの繋がりが切れたら
縁が切れるのは必然で、
一緒にいるコトの方がキツくなって
お互いの為にならないってお話だった。


相手を思うばかりに
自分の思いを犠牲にし過ぎたり
自分の考えを殺していたり
逆の場合もそう。

自分の思いを相手に押し付けたり
自分の考えだけで相手を縛っていたりする。

お互いを尊重するのって難しいって思った。

そして、別れのあと
想いが ムダ だったように思えてくる。

思い出が現実を行き来する度に
いろんな感情が引いては押し寄せてくる。

想いが確かにあったコトだけを突きつけられる。


相手がいるコトで
自分の感情や思いを学ぶコトが出来て
その上でお互いに表現出来て
お互いが共に成長するために
必要な相手だったコトを痛感する。


この人と一緒に居ていいのか
その正解を探し始めたら
おわりの合図かもしれない。

って不安はいつもそばにある。

ケド、
私の執着で見えなくしてる部分もある。

だから誰かの会話から学んだり、
聞こえて来た音楽がヒントを連れてきたり、
偶然見たモノや
文字や数字にヒントを得たり、
それをぜんぶ自分の肯定材料にする。

でも、
いつもそこに私の思いは無い。

思いを成り立たせたくない。
その一心で
私は無意識に
そういうヒントをすべて
受け取り拒否する時がある。

そうすると身体の不調がやってくる。

ハタ迷惑だし
ハタから見たら身体を大事にして
って思うかもしれないケド
私はこうまでして堕ちないと
思いとサシで向き合えないんだ。

正論や正解ばかり探したがるから。


ヒントを直感とヒモ付けるコトで
運がやってくるらしい。

でもね、
運がやって来たところで
私は喜べない。

喜んでイイんだよ
とか
ラッキーじゃん
とか
そういう幸せの類は
私の平穏をぶち壊す。

それもきっと
汚いイメージと罪悪感が共存してるから。

夢は夢のまま
幻想は幻想のまま

憶測のまま
妄想のまま
そっとしておいてほしい。

澄み切った思いに
現実は引き寄せられる
濁った思いに
身体は悲鳴をあげる

喜べない思いの中にある
捨てきれず守っている
譲れない考えは私を強くしている。

諦めが肝心?

何を諦めるの?

相手への想い?
相手からの想い?
自分の気持ち?
自分の考え?


別れは
お互いの正解を探し合う
正解を当て合うだけの関係ではなく
お互いの思いを
なすりつけるだけの関係でもなく、
それぞれの生き方を
お互い尊重できる関係になるだけのコト
なのかもしれない。

依存と執着に気を取られ過ぎて
本当の思いを見失ったり
正解ばかり探したがるから
本当の思いと向き合えなかったり
心の隙間を埋め合うだけの関係に
あぐらをかいたり
愛のカタチを許し合えなかったり。


やっと言葉に出来たのは
昨日、
現実界と接点を持つ覚悟が出来たからです。

頭と心の折り合いがつかない私は
ひとりで精一杯なのにな。

と思いながらも向き合う地に向かいました。


別れの相手は誰なんだろう
って考えたくもなかった。