私は、死ぬ事を保留にして過ごしていました。
看護師を目指した事で、また看護師になりその職に就いた事で、人間性を身につける事ができたと感じています。
親友ができ、良き先輩に恵まれ、貯まったお金でデザイン学校にも行き、まぁ、実力が無く、アートの世界には就職できなかったんですけど、良い経験をしてきたなぁと感じていました。
でも、どこかで、いつ頃死のうかなぁ~~~とも考えたりして、なんで死にたくなるんだろうとも考えたりして。
ぶっちゃけた話、漫画家とか、アニメーター以外には自分的には人生あり得なかったのを、両親に愛されたいが為、先延ばしにしたのが間違いで、家出してでも、貫けば良かったんですよね。
そちらの道に進んでいたら、こんなに苦しむ事は無かったと思います。
結局、◯◯◯アニメーション学校にも入学をあきらめ、(自信がなくなり)デザイン学校に入学したんですけど、道は開けず、生活のため看護師に戻りました。
戻った理由は、それだけではなく、前回も書いたように、銅版画家になる目標ができた事が生き甲斐になったというか、なにか、残したかったんですね。
絵なら何でも良かったのかも。
でも銅版画は、私の死にたい気持ちをまた、引き出しにしまってしまったんです。
看護師をしながら、ほとんど独学で銅版画を制作していました。
まぁ、と大酒のみの版画家のところでやってたので、よけいなストレスはありましたが、
銅版画を初めて、2年で、公募展に入選したり、新聞の挿絵を依頼されたりと、しました。
でも、デッサン力が無いな、と感じていた私は、モチーフに多い、ヨーロッパのどこかの国へ行って、
スケッチでもしに行きたいと思い、その為に今度はお金を貯め、2ヶ月ほど、スケッチ旅行に行ってきました。
そこでまた、休職扱いができないとの事で、退職しました。
で、行ってきた訳ですが、楽しかった。
それはまた別な機会にアップさせていただきます。
帰ってきて、今度は個展をしたくなり、スケッチを元に作品を制作、その間に、公募展にも出品し、今度は入賞し、スケッチ旅行が、私の画力を上げたようで、嬉しかった。
看護師のパートしながら、個展の準備をし、いざ個展をすると、黒字になるほど売れて、これまたびっくり、周囲の私に対する期待も増え、頑張らなきゃ、と思ってしまった。
そのあたりから、私の様子はおかしくなりました。
実は、個展をしたら、1~2年で準備をし、死のうと思っていたんです。
それが、色々と期待されると、それに答えなきゃと思ってしまう性格、でも心はプレッシャーで、だんだん描けなくなり、もちろん、食べて行けるほどの収入は無かったので、常勤で勤務する事になり、更に描けなくなり、どうしたらいいんだ、どうしたいんだと混乱している間に、家族の色々な事情も手伝い、精神的にぼろぼろになっていったんだと思います。
ちなみにヨーロッパから帰ってきて勤めた病院は、心療内科です。
色々勉強になり、一方で、異常な患者さんのストレスにさらされてました。
今日はこの辺で・・・。