イエス・キリストのイメージ (チェ・ゲバラ)
 
 
 
 
昨日、北朝鮮に対する国連安保理決議について「分断の時代を生きる(19)」を書いたのだが、書きあげてみると国際情勢はこのあいだ書いた「分断の時代を生きる(18)北朝鮮をアセンションする」からまったく変わっていない。
 
同じことを掲載しても仕方ないので、「分断の時代を生きる(19)」はまた国際情勢が変化するときに別の記事を書くことにした。
 
 
 
それで今夜は「人類は進化する」シリーズ。
 
ここのところ人類は進化するシリーズが何となくアセンションシリーズになってしまった感があるが(笑)、人類が進化するためにはアセンションは避けて通れない。
 
それでもうすこしアセンションについて書いて、それから東洋の至宝「禅」に言及したい。
 
 
 
それでは人類は進化する(8)アセンションの条件「Q」!
 
まず人類は進化する(6)アセンション・荘厳な死にも書いたが、
 
アセンションという言葉は、日本では一般に人間の魂が四次元から五次元に上昇することと理解されているが、もともとはアセンションというのは2000年前のイエス・キリストの肉体の死と魂の昇天のことだ。
 
肉体は四次元の存在なので、イエスの魂も人間として四次元の世界に閉じ込められていたが、イエスの肉体の死によって四次元を脱却して、もとの無次元の世界に上昇したのである。
 
 
 
欧米人にとって何より重要なのは、自分自身の死に際して、宇宙の生命と繋がって一緒にアセンションして完璧な愛の世界に生きるか、あるいは宇宙の生命と繋がることができずアセンションできずに死滅するか、ということである。
 
そして宇宙の生命はイエス・キリスト、もしくはイエス・キリストの言葉によって表現されている、と考える。 
 
というか、一般に熱心に聖書を研究すれば、そう考えるのが妥当であり、そう考えるのが正しいという結論に至る。欧米の多くの大学や研究機関による数千年の研究によっても当然ながら例外なく同じ結論である。
 
だから人が自らの死に際してアセンションできるかどうかは、本当のイエスの体系的な言葉を知っているかどうか、そして自分の血肉とすることができているかどうか、にかかっている。
 
 
 
スピリチュアルの人たちもアセンションにあたって、魂の純化と成長のために「愛が大事」「いい人であることが大事」「平和と共生が大切」などという言葉を投げかけているが、
 
それらはイエス(生命)の言葉の一部に類似しているので間違っているわけではないが、いまひとつ言葉がバラバラで、迫力とまとまりがない。
 
なぜ日本では魂の純化と成長にとって一番大事な「イエスの統一された言葉」が欠如しているのか?
 
 

それは、もともとニューエイジも聖書を土台として誕生したのだが、それが日本に輸入されたとき、その土台の聖書に関わる膨大な部分がすっぽり抜け落ちてしまって、表層部分だけがマスコミによって商品化され、根のないものになってしまったからだ。
 
これは難解な聖書を抜いてしまった方が、聖書に馴染みのない日本人には本や商品が売れると考えたマスコミの責任である。日本のマスコミ関係者が世界の聖書を理解できなかったという事情もある。
 
 
 
そこで、
 
このブログでは、その欧米の大学などによる数千年の聖書研究の成果からとくに「Q資料」に着目して、イエス(生命の木)の本物の言葉(霊感)を順次掲載していきたい。
 
と書いたわけだが、よく考えると少しづつ掲載したのでは、読む人が全体像を掴みにくい。しかも書くほうも面倒だ(笑)
 
それで今夜はQ資料を用いてイエス・キリストの言葉の全文を掲載します。
 
 
※Q資料というのは、ローマ帝国治下で編纂された新約聖書の4福音書について、西欧の多数の大学の研究者たちがその整合性を数百年にわたって研究し、4福音書以前にその土台としてイエスの生の語録が存在したと仮定して、その語録すなわちイエスが間違いなく語った言葉をこの数百年にわたって抽出しているもの。
 
 
 
このQ資料こそがイエスの生の言葉なのだから(またはイエスの生の言葉に最も近い言葉なのだから)、このQ資料を自分の血肉とすることによって魂が純化され、アセンションが可能になる。これが聖書の仕組みである。
 
自分の座右の銘や心構えなどを作るにあたっても、一般の哲学書や論拠の不明瞭な言葉を使うよりも、この聖書のQ資料を参考にして、あるいはQ資料から抜粋して作ったほうが、まず自分の人生とアセンションにとって間違いがない。もしくは間違いが最も少ないわけだ。
 
 
 
なお、前回も書いたが、このブログはキリスト教の布教をしているわけではない(笑) おれはキリスト教会は嫌いだ。
 
このブログは聖書、般若心経、唯識論、禅などの秘密と奥義を客観的に分解し、世界の救世主たる日本人の真の復活を目指す。そしてさらに人類の進化を目指す。
 
 
 
また、Q資料を読むにあたっては、キリスト教会が作ったインチキ・イエスの暗いイメージに影響されないことをお奨めする。
 
イエスのイメージは、世界中のキリスト教会によって「まじめで、おとなしくて、品行方正で、根暗で、今にも死にそうな、オカマみたいなヤツ」というイメージにねつ造されてしまった。
 
おかしいではないか。
 
イエス・キリストというのは生命の木なのだ。生命力なのだ。パワーの源なのだ。
 
生命というのは生き生きと躍動しているのだ。輝いているのだ。太陽のように力強いパワーの塊でなければおかしい。
 
肉体は精神の表れだ。イエスの肉体だってサッカー選手やオリンピック選手よりも躍動感に溢れて輝いていなければ、中身は宇宙の永遠の生命だなどと言えないではないか。
 
 
 
それから、どこかの大学のコンピューター関係の学者グループが、イエスは東洋系だとか何だとかいろいろ条件をインプットしてイエスの顔を村上春樹のようなどんくさい顔に再現していたが、それもおかしい。(村上春樹さんごめん(笑))
 
生命というのは愛の表現なのだ。生命とは愛なのだ。だから美しいのだ。人間も動物も自我のたくらみが出るから醜くなるのであって、無垢の生命そのものは愛と美の極致である。だいたい覚悟も決められない学者風情がイエスの条件を決めるのがおこがましい。
 

おれならイエスのイメージとしてチェ・ゲバラをお奨めする(笑) ゲバラは貧しい中南米の同胞を救うために人生を捧げた。貧しい同胞のために覚悟を決めて死ぬまで戦い抜いた。その意味でゲバラはイエスと同じ精神なのだ。
 
もちろんゲバラに限定する必要はないが、ぜひ、躍動感に溢れた、太陽のように美しく輝く、力強い生命であるイエスのイメージを念頭に置いて読んでいただきたい。
 
 

イエスの言葉の全文と言っても数分で読めるので、夜遅くなど静かな時間にじっくり味わっていただきたいと思う。
 
 
 
それではQ資料全文。

躍動感あふれる生命力が伝わってきたら、その瞬間(永遠の瞬間)において、あなたは生命の木・イエスと繋がっていると言える。
 
 
 
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Qの教本(オリジナルの版)
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<これはイエスの教えである>
<群集を見ると、彼は弟子たちに言った>
何と幸運な者だ、貧しい者は。彼らには神の王国がある。
何と幸運な者だ、飢えている者は。彼らは腹いっぱいに満たされるだろう。
何と幸運な者だ、泣いている者は。彼らは笑うだろう。
 
おまえたちに言っておこう。
敵を愛し、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ってやれ。おまえの頬をヒシャリと打つ者には反対の頬も向けてやれ。上着を奪い取ろうとする者にはシャツもくれてやれ。
求める者には与えてやれ、おまえの持ち物を奪うものがいても、返してくれなどと言うな。人さまにしてもらいたいと思うことを彼らにもしてやれ。おまえたちを愛してくれる者たちを愛したところで、それが何だというのだ。徴税人たちでさえ彼らを愛する者たちを愛しているじゃないか。兄弟たちだけに挨拶したところで、ほかの者より何か善行でもしているというのか? 誰でもそうするじゃないか。返してもらうことをあてにして貸すなら、それが何だというのだ。悪人どもでさえ返してもらうことをあてにして身内の者に貸している。
しかし、おまえたちは敵を愛し、よいことを行い、何も期待しないで貸してやれ。そうすればおまえたちの受ける報酬は大きく、おまえたちは神の子らとなる。
 
なぜならその方(神)は、邪しまな人間の上にも善良な人間の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨をお降らせになるからだ。おまえたちの父が憐れみ深いように、憐れみ深い者になれ。

裁くな、そうすれば裁かれないですむ。おまえたちが「裁きに」使う物差しが、逆におまえたちを裁く物差しになるからだ。
盲人は盲人の手を引けるか? 二人とも穴に落ちはしないか? 弟子は師にまさらない。師に似ていればそれで十分だ。
おまえは兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中にある丸太に気づかないのだ? 自分の目の中にある丸太を見ないで、兄弟に向かって「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と、どうして言うことができるのだ? 偽善者よ、まずおまえの目から丸太を取り除け。そうすればはっきりと見えるようになって、兄弟の目の中にあるおが屑を取り除くことができる。
 
よい木は腐った実を結ばず、朽ちた木はよい実を結ばない。茨からイチジクが採れるか? アザミから葡萄が採れるか? どの木もその結ぶ実によって知られる。
善良な人間は倉から良い物を取り出し、邪しまな人間はいかがわしい物を取り出す。
なぜなら口は心から溢れ出るものを語るからだ。
 
わたしを「先生、先生」と呼びながら、なぜわたしの言うことを実践しないのだ?
わたしの言葉を聞き、それを実践する者はみな岩の上に家を建てた者に似ている。雨が降り、激流が襲っても倒れなかった、岩が土台だったからだ。
しかし、わたしの言葉を聞いても実践しない者は、砂の上に家を建てた者に似ている。雨が降り、激流が襲うと倒れてしまった。ぺしゃんこだった。
 
ある人が彼に言った「あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります。」 するとイエスは答えた「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
別の者が「まず、わたしの父を葬りに行かせてください」と言うと、イエスは彼に言った「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせるがよい。」
また別の者も言った「先生、わたしはあなたに従います。しかしまず家族にいとまごいをさせてください。」 イエスは彼に言った「鍬に手をかけてから振り返る者は、神の王国にふさわしくない。」
 
彼は言った「収穫は多いが人手が足りない。だから収穫の主に刈入れのために働き手を送ってくれるよう願うのだ。さあ、行け。わたしはおまえたちを遣わす。それは小羊を狼の群れの中に送り出すようなものだ。
金も、バッグも、サンダルも、杖も携えてはならない。道中では誰にも挨拶をするな。
どこかの家に入ったら、開口一番『この家に平安があるように!』と言ってやるのだ。もし平安の子がそこにいるのならばおまえたちの挨拶は受け入れられる。もしいなければその平安はおまえたちに戻ってくる。
同じ家にとどまり、そこで出される物を食べ飲むがよい。働く者が報酬を受けるのは当然だ。家から家へと渡り歩くな。
町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べるのだ。病人の世話をし、そして彼らに『神の王国はあなたがたに近づいた』と言ってやるのだ。
しかし町に入っても迎え入れられなければ、出ていくときには足についた埃を払い落として『だが、これだけは確実だ。神の王国は近づいた』と言ってやれ。
 
祈るときはこう言うのだ。「父よ、あなたの名が崇められますように。あなたの支配がありますように。わたしたちに毎日、日々のパンを与えてください。わたしたちの負債を赦してください。わたしたちもわたしたちに負債のある者をみな赦しますから。わたしたちを誘惑(試される状況)に遭わせないでください。」
 
求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見つかる。叩け、そうすれば開かれる。求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれるのだ。
おまえたちの中に、パンを欲しがるわが子に石を与え、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか? おまえたちはよい者でなくても、わが子にはよい物を与えることも知っている。もしそうなら天にいる父はどんなに多くのよき物を求める者に与えてくださることか!
 
隠されているもので知られずに済むものはなく、明るみに出ない秘密はない。わたしが暗闇で言うことを光の中で言うのだ。耳にささやかれたことは屋根の上で言い広めるのだ。体を殺すことができても、魂を殺すことができない者たちを恐れるな。五羽の雀は二セントで買えないか? だがその一羽でさえおまえたちの父が知ることなしに地に落ちたりはしない。おまえたちの頭髪までも一本残らず数えられている。だから恐れるな。おまえたちはたくさんの雀よりもまさっている。
 
群集の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってやってください」。イエスは彼に言った「なあ、誰がわたしをおまえさんたちの裁判官や調停人に立てたのだ?」
彼はたとえで彼らに語った。「ある金持ちの土地が豊作だった。金持ちは『どうしよう、作物を蓄えておく場所がない』と思いをめぐらし、やがてこう言った『よし、こうしよう。倉を壊してもっと大きなやつをつくり、そこに穀物や財産をみなしまい、わが命にこういってやる。命の君よ、何年分もの蓄えが十分にできたぞ。ひと休みして食べたり飲んだりして陽気にやれ』。しかし神は彼に言った。『ばか者!今夜おまえの命の君は取り上げられる。おまえが生産したものはいったい誰のものになるのか』。自分のために富を積んでも、神の目に豊かでない者はこれこのとおりだ。」
 
おまえたちに言っておく。何を食べようかと命のことで心配などするな。何を着ようかと体のことで思い悩んだりするな。命は食べ物よりも大切じゃないか。体は衣服よりも大切じゃないか。
烏のことを考えてみよ。種蒔きもせず、刈入れもせず、納屋に穀物をためもしない。それなのに神は烏を養っておられる。おまえたちは烏よりも価値がないのか? おまえたちのうちの誰が思い悩んだからといって、寿命を一日ひき伸ばすことができようか。
なぜ、服のことで思い悩んだりするのだ? 百合がどのようにして育つのか考えてみよ。働きもせず、紡ぎもしない。だが、栄華をきわめたソロモンでさえこれほどには着飾っていなかった。もし神が、今日は野にあっても明日は炉に投げ込まれる草でさえこのように美しく装われるなら、おまえたちにはなおさらのことじゃないか。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかなどと考えて、思い悩んだりするのは止めよ。それは世の誰もが切に求めているものだ。おまえたちの父はおまえたちがこれらの物を必要としていることを知っている。
ただ、おまえたちへの神の支配を確信するのだ。そうすればこれらの物はすべておまえたちのものになる。
 
自分の持ち物を売り払って、施しをしてやれ。自分自身のために、富を天の口座に積み立てるのだ。そこでは虫が食うことも、錆つくこともなく、盗人が忍び込んで盗むこともない。おまえたちの富のある所におまえたちの心もある。
 
彼は言った「神の王国は何に似ているか。それを何にたとえよう。それは一粒のからし種に似ている。これを取って庭に蒔くと、成長して木になり、空の烏がその枝に巣をつくる。」
彼はこうも言った。「神の王国はパン種に似ている。女がこれを取って三升の粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 
偉そうにふんぞり返っている者は赤恥をかくが、へりくだる者は褒められる。
ある人が盛大な宴会を催そうとして大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったので、彼は僕を客人のもとに遣わして言わせた。「さあ、もう用意が整いましたので、お越しください。」 するとみな言い訳を口にしはじめた。最初の者は彼に言った「畑を買ったので見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」 別の者はいった「牛を二頭ずつ五組買ったのでしらべねばなりません。どうか、失礼させてください。」 また別の者は言った「新婚ホヤホヤなので行けません。」 僕は帰ると、このことを主人に報告した。すると家の主人は怒りを爆発させて僕に言いつけた。「さあ、すぐに町の通りに出て行き、見かけた者は手当たり次第連れて来るのだ。」 そこで僕は通りに出て行き、見かけた者を集めて連れてきた。こうしてその家は客人でいっぱいになった。
 
父や母を憎まない者はわたしから学ぶことは出来ない。娘や息子を憎まない者はわたしの弟子になれない。
自分の十字架を受け入れてわたしに従わなければ、わたしの弟子になれない。
自分の命を守ろうとする者は命を失う。しかしわたしのために命を失う者はそれを保つ。
塩はよいものだ。だが塩味を失えば、どのようにしてもとの味にもどるのだ? 土地のためにも肥料のためにもならず、外に投げ捨てられるだけだ。
 
 
 
以上。