生まれて、死ぬまでの間のことを私たちは「生きる」と言っています。生きる時間には限りがあり、その時間は大切なものであることは誰もが感じていることです。

 

 

愛犬のことを家族のように考えているのであれば、この生きている時間のなかで、何をしてあげられるか、何をすべきかを大事にしなくてはなりません。

 

死を迎えたあとは何もできません。生きているうちに、どれほど犬の「生」を充実させられるかは飼い主にかかっています。

 

飼い主として、愛犬が生きている時に、いかにしてあげられるか。何をしてあげるべきか。

 

 

そして、してあげることは、その犬にとって正しく。正しく。

 

ここを置き去りにして、自分の理想や都合だけを押し付けてしまうことは残念ながらよくあるケースです。

 

またその結果、犬に良くないクセがついてしまってもその犬の時間を巻き戻すことはできませんし、そのクセをなおすのに多くの時間を割かねばなりません。

 

ですからできるだけ早い時期に、必要で正しいしつけを施すことで、限りある「生きている時間」を充実させてあげられます。

 

 

さらに、犬が好きなこと、生きがいになることを見つけてあげれば、犬は寝て食べて留守番をする…という繰り返しの毎日ではなく、やりがいを感じる毎日を過ごせます。

 

このように、飼い主が出会った犬のことを理解しその犬にとって必要なことをしてあげることは、犬にとっては一番身近な存在である大好きな飼い主のリクエストに応えるために、一つ一つ内容を理解し、できるようになっていくことでもあります。

 

それが、犬にとって人間社会で生きやすく過ごすことや、生きがいなどにもつながっていきます。

 

その一連の過程は、人と犬が信頼関係を築きながら双方向で進める作業のようにも思います。

 

 

しかし、人間の一方的な身勝手ともいえる飼い方によって犠牲や負担を強いられる犬はあとを絶ちません。

 

…先日、私が引き取った保護犬が亡くなりました。

 

その犬は噛みぐせがあったために捨てられ、幾人かの飼い主を経て、私が最終的に引き取った犬です。

 

生まれつき噛みぐせのある犬はいません。おそらくその子も最初から噛むわけではなかったと思います。

 

捨てられた後、私が引き取る前に、その子へ手を差しのべてくれた人たちは、噛みぐせをなおすために何度も手を噛まれながらも、それでも心を注いでくれました。

 

最終的に私が引き取った後も、当然トレーニングを続けました。

 

しかしその子は、小さな頃に身に付いてしまった悪いクセがなおらないまま、2年間という短い一生を終えました。

 

こうして保護犬と向き合うと痛烈に感じることがあります。

 

 「この子たちはなんのために生きているのか」と。

 

 

そしてその問いは、そのほかの困難を抱える犬と接するときにも感じることです。

 

 「飼い主と離れるだけで不安になるようなストレスまみれで生きるために生まれたのか」

 「あたりかまわず噛みまくるために生まれたのか」

 「留守番ばかりの毎日で、ただ飼い主を癒すために生まれたのか」

 

「犬たちは一体なんのために生を受けてここにいるのだろうか」、と。

 

 

「家にいるときは常に一緒にいたい。べたべたしたい。」そのように人が依存して毎日を過ごした結果、犬も依存してしまい、飼い主と離れるだけでストレスを感じる犬がたくさんいます。

 

「しつけは面倒くさいし時間がかかる。そもそも怒るのはかわいそう。かわいいから甘やかしたい。」そのようにしつけを軽視した結果、手に負えなくなって捨てられる犬もたくさんいます。

 

「忙しいから犬にかまっている時間はもったいない。とりあえず留守番をさせてご飯だけあげておこう。」…留守番をしてご飯を食べて眠るだけの毎日は、人間だったらとても耐えられません。しかし、そのような飼い方をしているケースも多々見られます。

 

 

犬の生きる時間は限りがあります。その寿命は人間よりはるかに短いものです。いつ寿命を迎えるかも誰にも分かりません。

 

命そのものも、生きる時間も有限で儚く、だからこそ尊いものです。

 

どうか、少しでも、この世に生を受けた犬たちが正しい方向に生きられることを願うばかりです。