去年新文芸坐で初めて『SHARING』という映画を観てかなり気に入ったんだけど、監督の意向でソフト化・配信はしないようで、またどこかで上映される機会があったら絶対観に行こうと思ってたら、5/4にまた新文芸坐が上映してくれることに。

今回は篠崎監督のトークショー+篠崎監督作『あれから』 『SHARING』 『共想』 3本立て!

がワタクシ歳のせいなのかなんなのか3本どころか2本立てでもなんかしんどい… 何ヵ月前だったか新文芸坐でメルギブの『ブルータル ジャスティス』が上映された時、観に行きたかったんだけどニコラス・ケイジの狂った映画(?)と2本立てで、本来なら嬉しいところだけど『ブルータル~』のランニングタイムが159分ということもあって行かなかったのであった。

が、今回は『あれから』63分、『SHARING』111分、『共想』76分なんで、俺が昔東映で香港映画の『天空の剣』と『ビーバップハイスクール』と『湘南爆走族』の3本立てを観た時よりは短い(笑)。

ところが前回書いたように今回の緊急事態宣言となり、新文芸坐は営業か休業かとヤキモキしてたのだが、新文芸坐やってくれた。営業決行である。

1列目が全部埋まってたんで2列目の席を予約購入した。(後で知ったがトークショーがあるんで劇場側が1列目の席は売らずに空けたそうで。)

 

 

まずは篠崎監督と思考家なる肩書の佐々木って人のトークショー。

篠崎監督作品の独特さを解剖してくかのような触れ込みだったのに、佐々木の最初の挨拶というか話の切り出し、数十年前の監督との出会いのくだりが“長ェよ!”と思ってたら、監督は映画を殊更神聖なものみたいには思ってはおらず、当時は映画も観てたけど音楽も聴いてたし演劇も観に行ってたという話になり、あぁ最初期から切り込んでくのか、だから出会った頃の話が30秒で終わらなかったのか、と。私が誰か・監督とどういう経緯で知り合ったかという自己紹介的なものだと思ったからさ。

俺は『SHARING』しか観てないんで知らなかったのだが、この3本とも東日本大震災をモチーフにしてるようで、それで今回“3部作”という括りになってるが、監督曰く『あれから』と『SHARING』の間に1本、『SHARING』と『共想』の間にも1本進めてたそうで、実現しなかったそうなんだけど、だから“3部作”ってわけでもないようで。

…例によって俺は記憶力が悪いのでトーク内容を詳細にレポできないんだけど。

原発のもんじゅを見に行ったら傍にあるガードレールに大根が干してあった、地元の人たちが花見かピクニックのようにもんじゅを見ながらお弁当食べてたり、というのを見たというような話もしてた。地元の人の原発に対する意識だっけ付き合い方だっけ、共生… なんつってたかなぁ?

『あれから』を撮って次の『SHARING』、『SHARING』の後に撮った『共想』、作り方がどう影響していったかみたいな話もあったと思う。

あとメッセージ性の為に撮ってはいないけどメッセージはある…言い方間違ってるかもしれないけど、そんなような話もあった。

ってか『SHARING』上映後の休憩時にロビーでDVDを売りますと言う。マジか! それで頭がちょっと飛んだというのも無きにしも非ずだけど(笑)。

自分のスマホで客席を撮らせてほしいと撮り出す篠崎監督。

30分のトークショーが終了。

 

休憩を挟んで、3本の上映が始まる。

 

『あれから』

東北であの地震が起きた日の東京から始まる。といっても主人公周りの極めて局所的な映画なのだが、臨場感がちょっと凄いと思った。災害時の街を映すなどの映像で表現するのではなく、音像表現なんである。映ってんのは主人公の職場(小さい店舗)とか自室なのだが、外から聞こえる救急車?消防車?のサイレンの音や通過してくヘリの飛行音、不穏さ際立つ強い風の音などが臨場感ありまくる&不安を煽りまくる!

本作の音自体がいいのか新文芸坐のスピーカーがいいのかわからないが、音がまた迫力あって。

俺は映画とはストーリーではなく映像と音を体感するものだ、だからテレビドラマとは違うのだ、だからこそ「映画鑑賞」と言うのだ、映画はテレビドラマでなくむしろプラネタリウムを鑑賞するのに近いのだ、映画をスマホで見る(「観る」ではない)などクソな行為だ などと散々言ってきてるわけだが、

当然映画館ましてや新文芸坐はスクリーンがデカいんで映像の良い映画がかかった時は映像的臨場感が高いわけだが、本作は音像が素晴らしい。俺はこれはちょっと初めての体験だった。IMAXで観ても音がいいと思ったためしがない俺だが、本作は音の演出が素晴らしかった。

主人公の女性には精神を病んでる恋人がいて、その男が地元の宮城の実家に居る時に地震が起こった。その男の不安定な人格、その男と彼女・また男の実家と彼女とのよろしくない関係、被災地の彼と会えない状態が相まって、ドラマ的にも不安・不穏さは相乗。

というわけで本作は劇場で観ないとダメ。この音像体験は映画館でないと体感できないんである。

 

『SHARING』

以前観て書いたが、今回2度目の鑑賞――

立教大学?での「ラバーハンドイリュージョンという錯覚を経験できる装置」 自分の触覚情報とラバーハンドの視覚情報が脳の中で統合されて、ラバーハンドに刃物刺したら自分が刺されたかの如く錯覚するみたいな?

山田キヌヲ演じる学者の「私たちが私たち自身でいられるのは記憶によるもの」「記憶は果たして真実か?」「虚偽記憶」の講義風景

樋井明日香たち演劇科?の練習シーン(これは後にメソッドアクティング的な、明日香の相談に対する学者の、演技への没頭・思い込みの強さからくる錯覚だという指摘(明日香に言わせると違う)に繋がる)、

と展開してく素晴らしさ。

実際に現実の正体や我々の存在そのものが一体何かという疑念や検証があるわけで、量子論から解く人間の意識、現実は絶対的なものではないという量子論が示す実験結果、この世が仮想現実であると考えられる根拠、意識が現実を形成しているという脳神経科学からの考察、時間が実在しないという理論etc.(これらを非常識と思う人は、天動説を信じていた昔の人々と同様、偏狭)

本作は全体的に幻惑度が高い映画だが、単に夢から覚めを繰り返したり攪乱してるのではなく、ちゃんと科学的だったり思索的だったりで根拠がある。そうするともう本作の幻惑度の高さはそのままリアル度の高さに反転するんである。

その幻惑感のサイクルがすんげー畳み掛けてくる時があって、例えば山田キヌヲと“彷徨う男”の図書館の場面はまさにめくるめくって感じなうえ矢継ぎ早で凄まじい!

かつ、前に書いた、普通に続くと思ってる「日常」というものが天災や人災であっさり破壊される不安・いつかは崩れる恐怖まで絡み、現実認識の崩しっぷりが押井守の映画並みにキテる。

それでいて空間性のある映像(前回書いた3Dを使わない奥行き感ってやつね)も時々あり、映像というものはそもそもは2次元だが人間は3次元生物なんで、あの構内を動き回るカメラワークは3次元的(一方向から見ると円だが角度を変えて見ると球体であることがわかるみたいな、視点が変わって(あるいは視点が動いて)多角的に見ることによる3次元認識)=現実的であり、幻惑度と現実感を兼ね備えている。

本作はそんじょそこらにない際立った映画であり、つくづく凄い作品。

…が、左隣りの席の奴がなんか異様に落ち着きなくて、1本目からなんかずーっと動いてんだよ。特に手。それが煩くて、それでなくても3本立てなのにその鬱陶しさで疲れてきた…。

 

それで3本目『共想』の時は左目閉じてそいつをシャットアウトして右目だけで観てたのだが、当然そんな観方をしてるとなおさら疲れるわけで、『共想』は半分ぐらい意識失ってた。

女のコが大学の廊下をドーッと進んできて、それが逆にガーッと引いてくとか画的に面白かったのはよく憶えてるのだけど。

渡せなかった誕生日プレゼント。あの地震の日に小さな齟齬が生じた幼馴染の2人の、7年越し(だっけ?)の仲直り。ラストはちょっと感動的でもある。

『共想』はまた改めてどこかでちゃんと観たい。

 

『SHARING』上映後、速攻ロビーへ。今日上映した3作のDVDを監督自ら手売り。俺は『SHARING』を買った。監督が今回の上映のチラシとともに、中にサイン入れましたとDVDを手渡してくれる。

『SHARING』を所持することができて嬉しい限り! 早速自宅で観まくってるけど、『SHARING』がまたどこかで上映されたら観に行くよ。本当に映画足り得てる映画は映像・音像が映画館でこそ堪能できるものであり、『SHARING』は(『あれから』もだけど)基本的にはやっぱ監督の意向通り映画館で観るべき作品なんである。

写真のピント合ってない&ブレてるけど、ロビーで対応する篠崎監督。