本日9月1日は『防災の日』
今年は大正12年9月1日11時58分に発生した「関東大震災」から100年目の節目を迎えます。
関東大震災は神奈川と東京を中心に、隣接する茨城・千葉・静岡までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらしました。190万人が被災し10万5000人あまりが死亡または行方不明になったと推定されており、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっています。
この被災者・死亡者の中にはわたくしの身内、父方の祖母の兄弟姉妹と父親(曽祖父)が含まれています。
祖母は元日生まれで強運の持ち主。
祖母の父にあたる曽祖父は深川の猿江でガラス工場を営んでいました。
祖母は6人きょうだいで震災当時は12才。色々な習い事をするお嬢様だったようです。
日々不自由なく暮らしていた中、関東大震災が発生します。
両親は無事だったものの一番上のお兄さん以外の兄弟姉妹が全て亡くなり、曽祖父も助かったのですがその時の怪我が元で半年後に他界。一番上のお兄さんは戦争で亡くなりました。
兄弟姉妹の中で祖母だけが生き残ったのです。
その後は祖父と出会い結婚。曽祖母と一緒に仙台で暮らしました。仙台でも戦争の際、大空襲に遭うなどしましたが、持ち前の強運で乗り切り、99才という長寿を全うしました。きっと亡くなった兄弟姉妹の分まで生きたのだと思います。
調べてみたところ、震災当時に祖母が住んでいた深川(猿江)はかなりの被害だったようです。
この地震で新聞各社の社屋も焼失し、唯一残った東京日々新聞の見出しには
「東京全市火の海に化す」
「日本橋・京橋・下谷・浅草・本所・深川・神田殆ど全滅、死傷十数万」
「江東方面死体累々」
「火ぜめの深川、生存者は餓死」
と日々続きました。
祖母は
皆とは反対の方向に逃げて助かった
意識を失い気がついたら顎まで水に浸かっていた
とよく語っていました。
この地震では火災旋風による焼死者が多く、凄まじい光景を目の当たりにしたようです。
三菱財閥創業者の岩崎彌太郎はこの地一帯を購入し「深川別邸」を整備、迎賓館や社員の親睦の場として使用しました。大正10年に庭園の東南を「清澄遊園」(現在の清澄庭園)として市民に公開。
関東大震災では、近隣住民の約1万人がこちらに避難し、火災から逃れることができたといいます。
本所・深川地域は橋が多かったため避難が難しく、土地をよく知っている人とそうでない人とで明暗が分かれたとされます。
区域の85%・世帯の92.7%を焼失する大きな被害を受けた深川。復興を遂げるも太平洋戦争における東京大空襲にて深川区・城東区(現在の江東区)はほぼ全域が焼失し、約3万人の死者を出しました。
中でも被服廠跡地に避難した人々は約4万人が焼死しています。人々が地震発生後の早い段階で、可燃物となる大量の家財道具を持って避難したのと、延焼火災が3方向から迫ったことで火災からは安全な場所にならなかったようです。
上野公園や浅草公園は、その日の風向きも幸いし、避難したたくさんの人々が助かっています。実際に被服廠跡地が飽和状態のため、仕方なく上野公園へ移動した人々が助かっています。
関東大震災で亡くなった曽祖父・祖母の兄弟姉妹は錦糸町にある寺院に眠っています。
ー合掌ー
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