

大鷦鷯尊 おおさざきのみこと (仁徳天皇)
億計尊 おけのみこと (仁賢天皇)
弘計尊 をけのみこと (顕宗天皇)
創建年代不詳
旧称 三宝荒神社 梺明神社
安康天皇の御代(456)、眉輪王(まゆわのきみ)の乱が起こり、皇位継承争いが激しくなってきます。
允恭(いんぎょう)天皇の皇子の穴穂命は、兄の軽皇子を殺して帝位につき安康天皇となりましたが、大草香命を殺しその妃の中蒂姫(なかしひめ)を奪って自分の妃としたため、大草香命の子の眉輪王は父の仇として天皇を殺しました。
天皇の弟の泊瀬皇子(雄略)は眉輪王を殺し、さらに履中天皇の皇子こ市辺押磐王(いちのべのおしわのきみ)を殺して天皇の位につきました。
そこで身の危険を感じた日下部使臣と子吾田彦は億計・弘計の二皇子とその母をつれて丹後半島へ逃れ、灘波野に隠れたといいます。母はその冬に病死し、日下部使臣も前途を悲感して自殺します。
億計・弘計の二皇子は、丹後海人族で日下部氏の先祖である「浦嶋子」の弟の今田三郎により匿われました。
素性を隠して隠れていた2人が発見されるのは、2人が大和を離れてから25年後。雄略天皇崩御後の清寧天皇の御代のことです。
牛馬番として仕えていた忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)の邸で開かれた宴で、弟の弘計が出自を明かしたことで、2人は子のいなかった清寧天皇の後継者となったのです。
清寧天皇が崩御すると、二皇子はお互いに次期天皇の位を譲り合いますが決まらなかったため、姉(または叔母)の飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)が摂政として政務を執り、皇女が亡くなると弟の弘計が即位(顕宗天皇)しました。
なぜ弟が先に?
兄の億計は、今があるのは身分を明かした弟の功績だと、最後まで即位を固辞したんですね。
即位した弘計は
父を殺した雄略天皇の陵を破壊して骨を投げ散らしたい
という復讐心にとらわれます。
兄の億計は、弟の代わりに自分が報復しようと陵へ行きますが、すぐに帰ってきました。
あまりに早いので弘計が理由を尋ねると
陵の隅の土を少し掘っただけ
と億計が言います。
それでは復讐にならないではないか
雄略は父の仇だが自分たちの叔父であり天皇であった。その陵を破壊すれば、世の人々は非難するだろう。ただ仇は討ちたいので陵の隅を少し掘った。後世に示すにはこれで十分だ
と弟をいさめました。
弟は兄に深く感謝しました。
弘計(顕宗天皇)が崩御後は、億計が仁賢天皇として即位することになります。
まさに復讐の連鎖が続くところでしたが、ここで断ち切られて何よりでしたね。
もし復讐していたら、このようにお祀りされていたか分かりません。




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