雲が多く、肌寒いです

昨日は、西郷輝彦さんの
YouTubeを見返したり
舟木一夫さんの記事を読ませて
貰ったり、、、。

訃報に接した一昨日よりも
何だかずっと色々な思いが
交錯してしまい
気持ちも頭もぐちゃぐちゃのままの記事アップで
内容も頭と同様にぐちゃぐちゃ。
言葉の使い方も間違いやおかしい言い回しで
お見苦しい記事をお見せしてしまい
申し訳有りませんでした
            m(__)m

書き直しや手直しも試みましたが
それではいっそうぐちゃぐちゃに
なりそうな気配でしたから
削除させていただく事にしました。

読んで下さりいいねを下さった
ブロ友の皆さまには
お手間を取らせて本当に
申し訳なく思っています。



あらためて下の記事は
記者の方と舟木一夫さんとの
一問一答の様子です
昨日の記事よりもう少し
詳しく舟木一夫さんの
思いが伝わります


栃木・宇都宮市文化会館でのコンサート前に、西郷さんへの思いをひと言ひと言絞り出すように、時には涙声で話した。


-訃報をお聞きになったのは


昨日、プライベートな出先で、

事務所からの連絡で知りました。

実は、夕べは4時ごろまで寝られなくて。

彼の顔が出て来て、彼とのことを

いろいろ思いだそうとするんだけど、

ピントがぼけちゃって、

それが今も続いているというか。

だから言ってみれば悲しいとか

寂しいとかいう感情ではなくて、

体の中から何か1つスッと

持っていかれたような。

それが何なのか僕にも分からないですけど、

その感じが今でも続いています。


-西郷さんの悲報に向き合いたくないというお気持ちですか


いや、向き合おうとするんですけど、

そうなんだってのみ込もうとするですけど…。

今日もいつもより新聞を多く買ってもらって

記事も読んだんですけど、

もう会えないという実感がないんです。


-西郷さんと最後にお会いになったのは

確か19年に(西郷さんのデビュー)
55年をやるというので、
ご本人と事務所から連絡あった。
「手伝って」という話で、喜んでと
ご本人とも話をして。
その前に前立腺のがんが再発した
というのをメディアで知って、
輝さん(西郷さんの愛称)に
「あまりうれしくないうわさを
耳にしたんだけど、どうなの」
という話をしたら「そうなんだ」って。
とりあえず55年に向かって行こうよって話した。それがコロナ禍で飛んでしまって。
再度、次の年にやり直そう
ということなったんだけど、
それもまたコロナ禍で飛んでしまって。
彼は大変悔しがっていたというか
残念がっていた。

-連絡は取り合っていたのですか

この丸々2年ぐらいは、だいたい2カ月か
3カ月に1回は電話で話をしてたんですよ。
それで、どちらからともなく、
そういえば2人っきりでめし食ったことないねとなって。
それで一昨年の12月ですから、
14カ月ぐらい前ですか。
2人だけでめし食おう、仕事の話抜きで
ということになって、赤坂で中華を食べながら、1時間半から2時間ぐらいだったと思う。
お互いに青春時代はああだったけど、
あの時そっちはどう思っていたのみたいな、
男の子同士の話をした。
お互い異口同音に言ったのは、
時間がたってみると、
俺たちはライバルじゃなかったねって。
これには輝さんと僕とで笑った。
そうなんだね、何十年もたって考えてみたら、
ライバルじゃなくて、先輩たちに負けないように若手が頑張ろうとやっていた。
若手の固まり、僕と輝さんだけじゃなくて、
若手が業界とお客さんに向かって
突進していたんだね。
もうひと言余計なことを言ってしまえば、
いい意味でけんかをしていたんだね。
若手の一塊が業界とお客さんに向かって
「俺たちはここにいるぞ」って。

-西郷さんはどんな歌手、俳優でしたか

西郷輝彦という人は1人しかいない。
西郷輝彦というシンガーであり俳優だった。
それ以外に何もいらないと思う。

-ご病気のことは

ご飯を食べてからしばらく(連絡が)
途絶えたので、4月か5月に僕の方から電話した。いきなり彼、笑いだしてオーストラリアにいるんだよって。
何それって言ったら、ご存じのように、
そのこと(前立腺がんの治療)でこっちに来ているんだって。
きっと勝って、8月半ばぐらいに
帰れるからって。
病気治して帰るから、
その時は必ず一報入れると。
じゃあ待っているよって電話を切った。
それで心待ちにしていた電話が8月になっても
9月になっても掛かって来なかった。
病状を聞いていたので、残念ながらいい方向に解釈できなかった。
日本に戻って戦っているなと思って、
あえて電話をしなかった。
ご家族の思いもおありでしょうし。
だから輝さんに会ったのは19年12月の中華を食べた時が最後。
最後の電話は知らないでオーストリアに電話した時でした。

-55周年の記念コンサートについては

彼はものすごく悔しがった。
ジョークでね、コロナのやろうって
言っていました。
僕はいいじゃないか、体の目星をつけるのが最初だからって。
2年遅れても、ここで55周年やりますでも
お客さんは納得してくれるからと言った。

-舟木さんは輝さんと言いますが、西郷さんは舟木さんのことをどう呼んでいたのですか

ねえとか、ちょっととか(笑い)。
彼は芸能界の人ですから。
1日違っても先輩後輩。
彼は律義にきちっとする人だった。
僕の方は西郷君という呼び方は
水くさくてできなかったですね。
若いころから輝さんって言っていました。

-御三家時代の交流はどうでしたか

第三者から見ればライバルと見えたでしょうし、そういう思いが50%あったのは事実ですが、
結局は全員が誰にも負けたくなかったんだよね。その時代だと三橋(美智也)さんもいれば、春日(八郎)さんもいれは、フランク(永井)さん、コロムビア(レコード)には
(美空)ひばりさん、お千代(島倉千代子)さんがいらっしゃるんですよ。
固有名詞関係なく、僕らの世代が誰にも負けないぞって、それぞれがそう思っていた。
正直、御三家の2人に負けたくないと思ったことは1度もない。
輝さんも同じ思いだったよね。
オレが金メダルだ、という思いで
若さで走っていた。
広い意味で、輝さんのお客様も僕のお客様も含めて、同じ時代を生きた仲間なんです。

-お声を掛けるとしたら

お疲れさんですね。
第三者から見てしのぎを削っていたころが
あった人というのは、何十年もたってみると、
やっぱり宝物なんだよね(涙声)。
かけがえがないんだ。
ステージの真ん中に立って1人で歌う気持ちというのは、親兄弟、マネジャーが
100年そでで見ていても分からない。
これは本当に同じ仕事をした人間にしか
分からない。
だから、単に悲しいとか悔しいとかという
フィールドの中に入らないんです。
今日、コンサートやりますけど、
今日来てくださったお客さんプラス1という思いで、ベストの歌を歌えたらと思います。

-弔問には

こんなご時世で、どなたも
そうしてらっしゃる時期ですから。
落ち着いて奥様のお許しが出て、
内緒で眠っている場所を教えていただければ、
そこに行って「お疲れさま」と言えればいいなと。
そうできればと思っています。

               以上です

舟木一夫さんらしい、ご自分の言葉で
盟友、西郷さんへのお気持ちが
ヒシヒシと伝わって来ます。

このインタビューの後の、宇都宮コンサート
西郷輝彦さんのお話はひと言も
されなかったけれど、今日のお客様プラス1の
舟木さんの思いは会場にも充分伝わり
皆さん同じ気持ちだったと
行かれた友達よりお聞きしました。

最後に会場に向かって
いつもの通り深々と頭を下げられた後
天井の方に向かって大きく
手を振られたそうです。

まるで西郷輝彦さんに
お別れをしているかの様に、、、。